書評

鈴木大拙著・佐々木閑訳

『大乗仏教概論』

岩波書店

二○○四年一月発行

 

                    常盤義伸

 

 


  訳者は、花園大学仏教学教授で、以前、ご著書『出家とはなにか』で提起された問題について我々の平常道場で論究するときに、会員で同じく花園大学教養課程教授(英語)のジェフ・ショア氏の誘いに応じて出席してくださったことがある。この書物 (『大乗仏教概論』Outlines of Mahayana Buddhism) が発行日の一月二十八日の翌日、岩波書店から訳者・佐々木閑氏の名で私宛に贈られてきたので、ご好意を有難く感謝し急いで通読して、以下に指摘する通りの私の反応を直接佐々木氏に書き送らせていただいた。佐々木氏は初期仏教の戒律がご専門の新進気鋭の研究者であられるので、今までいただいた論文などはいつも興味深く拝読してきた。今回も大いに期待をもって読ませていただいた次第だが、実に残念なことに、佐々木氏は大乘仏教を取り上げて論ずる準備が十分おできになっていないことを知った。それがご自分の論文でのことであれば、それだけのことだが、鈴木大拙の英文著書の訳者として内容を紹介するお立場に立たれて、大乘仏教についてこのような理解に留まられることは、まことに残念である。問題点を簡単に公表しておく必要がある。

  さいきん大拙の思想に対してブライアン・ヴィクトリア氏(Zen at War 『戦争する禅』, Weatherhill 1997)、ベルナール・フォール氏(「禅オリエンタリズムの興起」岩波書店『思想』二○○四年四月)、ロバート・シャーフ氏(「禅と日本のナショナリズム」、ぺりかん社叢書『禅と日本文化』第9巻『禅と現代』西村恵信氏編集、一九九八年)などが批判と非難とを浴びせるような状況が見られる。以前私はヴィクトリア氏の非難の根拠が、大拙の意図を曲解した市川白弦氏の大拙紹介にあることをこの紙上(第四六号、二○○二年七月)で明かにしたつもりである。フォール氏とシャーフ氏とに共通することは、大拙の禅の立場を「周辺的」と位置付けることである。すなわち、大拙は彼等によると、専門道場の規矩に従った修行をまともにせず、居士として外から禅を見てきたものだと、いわば言いがかりのようなことを云うことである。なおシャーフ氏は、ミシガン大学に提出した彼の学位論文、『宝蔵論』の英訳と研究、(Robert Sharf: The "Treasure Store Treatise" Pao-tsang lun and the sinification of Buddhism in eighth century China, The University of Michigan, 1991) の序文で全く唐突に、大拙、西田幾多郎などとともに、久松真一とFAS協会とは、戦後によくみられた「日本人論」の典型だ、久松は[禅を理解する]日本人が他に比類をみない優れた特徴をもつと主張する、と述べる箇所がある。すなわち久松によると、禅は多くの宗教のうちの一つではなく、正当な宗教生活の背景にある体験である、それは一つの修行や教義というものではなく、究極的なものの体験である、とする。そして、これが日本人の国家主義を助長することになっている、と云う。シャーフ氏はこの主張の根拠をそれ以上に論ずることを、この論文のどこにもしておられない。学位論文という客観性を重視しなければならない著作にこのような、前後の文脈との関連性の見られない軽率な言及を留めることを認めたミシガン大学の論文審査担当者たちの姿勢に私は疑問をもつ。

  佐々木閑氏が大拙の大乘仏教理解に対して批判をされる根拠は、ご本人が訳者後記で言及されるとおり、ベルギーの仏教文献研究者ルイ・ド・ラ・ヴァレー・プサン、(一八六九ー一九三八)の大拙批判である。佐々木氏はプサンを「当代きっての、いやそれどころか、古今東西、現在に至る仏教学の歴史の中でも最大最高の学者」だと絶賛される。佐々木氏は、まず、ご自分が批判の対象とするのは、禅研究者としての鈴木ではなく、仏教思想紹介者としての鈴木であるとされる。その理由は、禅の研究がご自分の専門分野でもなく評価能力もない上、本書のあとがきとして取り上げるべき問題でもないからだとされる。佐々木氏は、禅の研究者としての大拙を大乘仏教の研究者としての大拙と切り離して論ずることができると考えておられる。これは一見尤もなようで実は無理な見方である。大拙においては、『華厳経』『楞伽経』などの大乘仏教思想は禅の思想と深く関連しており、切り離すこと自体に問題がある。また佐々木氏は、プサンとともに、大拙の用いたサンスクリット語の綴りの大半が不正確なことが本書への信頼性を大いに損なうとされる。この本の出版は一九○七年(明治四十年)、プサンの書評の発表されたのはその翌年だという。プサンは仏教のサンスクリット文献を読みそれに注をつける仕事を専門にしていた学者であるから、綴りの誤りを指摘するのは当然だし、その指摘を大拙が受けいれたであろうことも自然である。再版を拒否し続けた著者の意に反していま翻訳再版する段階でサンスクリット語の綴りが杜撰すぎると非難することにどれほどの意味があるのか。両親の死で旧制高校を中退し大学の専科で学び、終了後アメリカで働きながら書き上げた著書のサンスクリット語の綴りに誤りがあって不思議ではない。自分の未熟さにも拘わらず英文で考えを展開せずにおれなかった大拙の心意気の壮大さにこそ、我々は注目すべきである。当時の仏教研究者で大拙の著作活動に協力する者がいなかったことの方が問題であろう。

  プサン、そして佐々木氏、の書評の焦点はどこにあるのか。それは次ぎのようである。すなわち、大乘仏教と我々が一括して呼ぶ宗教運動は一元的なものではなく、異なる多様な教義が併存する。その意味で鈴木が主張する思想を大乘仏教ではないとして否定することはできない。問題は、鈴木がその多様性を考慮せずに、自分が主張する特異な汎神論を真の大乘仏教だと云い立てる所にある。しかし鈴木の云う大乘仏教は、実際には仏教というよりもヴェーダーンタあるいはヘーゲル哲学に近いものである。それは竜樹や無着の主張とも違うし、『無量寿経』や『入楞伽経』(七巻本)の思想とも違い、密教的イデオロギーとも異なる、全くの別物である。鈴木は大乘仏教をヴェーダーンタと完全に混同している。鈴木が法身を宇宙の究極原理、移ろいゆく諸現象の存在論的基体と考えるのは、大乘仏教の考えではない。鈴木によると、法身はあらゆる場所に遍在し常に作用し続ける自発的意志であり、生き物たちに最大の利益をもたらすために自己を顕わすという。これはインド大乘仏教の特質ではない。未来世において一切衆生を救済するために仏となることを誓うという菩薩の誓願の考えは大乗の基本要素の一つだが、鈴木はその誓願を「法身の意志」と解釈することで、全く新しい概念を創出している、と。

  菩提心についての鈴木の解釈「法身が人の心に映し出されたものとしての知的心」は間違いで、それは、菩提すなわち悟りを求める心、仏になりたいと望む心を意味する。アノクタラサンミャクサンボダイ心は「完全な仏になりたいと望む心」を意味する。鈴木はそれを「最高にして最も完全な智慧の心」と説明するが、間違いである。……

  その菩提心をえたものを如来の胎児(如來藏)と呼ぶ。鈴木はこの如來藏について多くのページを費やして解説する。その根拠とする『入楞伽経』では、その「内在する実在」を説く如來藏のアイデアは実はバラモン・ヒンヅー思想のいうアートマン概念と同質のものであり、しかもそれは初心者を入信させるための便宜的導入にすぎないとされている。……

  鈴木のこの本を総括すれば、そこにはタントリズムの原理を認める日本真言宗の視点が影響しているようである。その教義は「我々は誰もが本来は仏陀であり、神秘呪術的プロセスを通ることで容易にその仏性を悟ることができる」というものである。鈴木が引用する文章の多くはこの教義に沿ったタントリックなものである、と。

  以上の鈴木批判は、大乗仏教の多様性を主張する一方で、大拙が打ち出す大乗仏教を、大乗固有の特性を無視しておりヴェーダーンタ的あるいはタントリックなものだ、とする。歴史的にはヴェーダーンタは、バラモン・ヒンヅー教が大乗仏教の思想を取り入れて成立したものであり、その逆ではない。そしてプサンも佐々木氏も、大拙の理解の根底に『華厳経』の思想があることには全く言及されない。『華厳経』は、仏陀・釋迦牟尼が無上覚を現成した「広博」な菩提道場に、無数の仏土から無数の菩薩たちが集まってきて、宝蓮華座の仏陀の「華嚴三昧」を祝福するなかで、仏陀の影響を受けた菩薩たちの間に展開された議論の集積という形をとる。仏陀に見られるように、出家は単に家を棄てるというだけのことではない、それこそは布施の本当の意味なのだ、と。また、一切の音声は仏陀の音声であるようでなければならない、と誓われる、など。『華厳経』の菩薩たちのそういう議論を踏まえて大拙が法身、菩提心、誓願などの用語を紹介することに考え及ばないようでは、大拙の所論を批判することはできない。如来蔵・アーラヤ識についての『入楞伽経』の立場への理解も、お二人には見られない。プサンが取り上げた箇所では『入楞伽経』の仏陀は、如来蔵と云われるものについての質問者・大慧の理解が間違っており、それは無我を理解するために説かれたものだ、と説明していることをプサンは理解していない。プサンは仏教思想について、語学の立場から以外、大拙を批判することのできるような立場に立っていなかったと云うべきである。

  佐々木氏は、このほかにプサンの言及しない問題点3つを挙げられる。『大乗起信論』の著者を馬鳴とすることを前提として議論すること、小乘仏教は慈悲を重視せず利他の教えを説かないから大乗よりも劣っているとすること、個人のうちにある潜在的機能であるアーラヤ識を宇宙的如来蔵なるものと同一視すること、が問題だ、とされるのである。しかしながら、佐々木氏は、それらを根拠なしとして大拙の見解を斥けることはできない。馬鳴が『大乗起信論』の著者とされたことに理由があることは、馬鳴の著書『仏所行讃』と『入楞伽経』とをよく読めば分かることである。馬鳴の描くシッダールタは、サーンキャを斥けて成道したとされる。『大乗起信論』の「訳者」真諦が、これら二つのテキストに一貫する、大乗仏教からのサーンキャ批判の立場を明確にするために馬鳴を「著者」としたことは、きわめて明かである。真諦が『大乗起信論』を「馬鳴菩薩造」としたことの意味について大拙は、そこまでは気付いていないが、自分のこの本の第六章「如来蔵とアーラヤ識」のなかの最後の節「サーンキャ哲学と大乗仏教」で、サーンキャの二元論を批判する『入楞伽経』の、したがって大乗仏教の、立場をしっかりと展開している。プサンはもちろん、佐々木氏も、そのことを理解されなかったために、大拙がアーラヤ識を全宇宙的存在とする理由を理解することがおできでなかった。

  大拙がキリスト教宣教師たちやキリスト教世界の思想家たちによる仏教への誤解を斥けて大乗仏教の思想を紹介したこの書物に対して、その意義を理解して、足らざるを補う方向でこれを翻訳し紹介するという姿勢をとることこそが望まれるときに、大乗仏教の特質に十分には通じていなかったと考えられるプサンの理解を出ることのない立場を墨守することに、一体どういう意義があるのかを私は疑う。佐々木氏のこのお仕事に顧みるべき意義があるとすれば、それは、研究者の厳しい眼を以て、文献の引用やサンスクリット語の綴りの点検など、大拙の至らなかった所を訂正する努力をされつつ、出版社の意向をうけて英文を日本語表現に直していただいたことにあろう。大拙の原文、およびプサンの書評を見ない段階で云えることは、ここまでであろう。