無灯庵坐禅会記録

                      江尻祥晃

 


はじめに]

  私は自宅で【無灯庵坐禅会】なるものを開いている。定期的なものではなく、希望者があった場合にのみ行っているのであるが、以前から、越智さんには一度来ませんかとお誘いしていた。今回(二○○四年一月三十一日)、第五土曜日(平常道場がお休み)ということもあり、来ていただけることになった。以下の話し合いはその時になされたものである。

 

「越智さんと基本的公案」

 

江尻「越智さんに一度お聞きしたかったのは、越智さんと基本的公案というんですかね、越智さんにとっての基本的公案でもいいんですけれども、以前、どこかに書いておられたと思うんですけれども、越智さんは久松先生が生きておられる時に、基本的公案というのは知っていて、取り組んだけれども、実際に、むしろ一生懸命に取り組んだのは久松先生が亡くなった以降だと、言われたことがあったと思うんですよ。それで、久松先生が亡くなられて、自分自身にとって基本的公案というのをもう一回見直した時にね、本当に自分自身の問題として真剣に取り組もうと思ったと、それで今までずーっと来られているわけなんですけれども、今まで基本的公案に取り組んでこられて、現在の思いというんですかね、今ここでの到達点といったらおかしいかも分かりませんけれども、今どう思っているかというね、その辺を聞かせていただけたらなあと思っているんですけれども。」

 

越智「そうですねえ、今、坐っておってもね(この話の前に二人で坐禅をした)、基本的公案を粘提していたんですけれどもね。集中しやすいですね。」

 

江尻「それは坐禅をしながら、『どうしてもいけなければどうするか』『どうしてもいけなければどうするか』…と念じるというか、それを絶えず唱えるということですか。『ひとーつ』『ふたーつ』と数を数えていく数息観というのがありますね。あれと同じというのはおかしいかも知れませんけれども、ああいう感じで、吐く息、吸う息ごとに『どうしてもいけなければどうするか』という感じでやっているということですか。」

 

越智「ええ。“自分は本当にこれでよいのか”という反省が根本ですが、結局、どうしてもいけなければどうするかとやっている時に、『わが身心を放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、仏の方より行われて』(道元)という、そういうことになるんです。わが身心を放ち忘れて、仏の家なんて別にないんで、もう投げ出すと、そういうことになるわけですよ。『どうしてもいけなければどうするか』(わが身心の置きどころがない)という、そこから投げ出すということが起こるわけです。そういう実感なんですね。」

 

江尻「それは一番最初に取り組まれた時から、段々段々そういういろんな変遷を経て、今のそういうお考えになったわけですか。」

 

越智「まあねえ、基本的公案に取り組みだしてみるとね、考えてみたら結局、自分が坐禅をはじめた頃からですね、昭和二十六年からFASへ入ったわけですけれども、FASへ入ること自体が『どうしてもいけなければどうするか』という、どうしてもいけないところで池長さんを尋ねてですね、池長さんに誘われて久松先生に紹介されて、それで道場に入ったわけですね。常にね、自分の問題、仕事の問題、結婚の問題、その他いろんなものが常に『どうしてもいけなければどうするか』ということで、こう説明することができるし、その時に、やっぱり坐るということがね、一つはそのことを、堂々巡りやっている状況がですね、坐ることによって、一つの焦点が決まるというか、焦点が決まる、その決まり方というのは、まあ、いろいろありますけれども、『どうしてもいけなければどうするか』ということの解決を、実際『どうしてもいけなければどうするか』という状況で、仕事の上でも、家庭生活の上でもですね、自分自身の思いの中でも、基本的公案と、無意識的にだけど、ずーっと取り組んできた歩みが、そうだったということになって、それを特に先生が亡くなった後、意識的に公案として取り組みだしたと、こういうことになるんですが、私において一番端的なのはね、坐るということ、結跏趺坐するということがね、結跏趺坐でね、別時を通すということができなかったんですよ。まあ、最初はね、一日二日は気持ちよく坐ってたって、二三日したら段々痛みがひどくなってきて、どうしても最後まで通せなかったですね。私には池長さんというひとつの素晴らしい手本があったですけれども、一つの私なりのめどは結跏趺坐で別時を通すということでした。」

 

江尻「以前、別時というのは七日間でしたね。その七日間をという意味ですね。」

 

越智「そのことが課題だったわけですね。ところが足が痛くなるでしょう。痛くなったら、これ、坐り続けていようと思ってもいけないし、おろしたらなおさらいけないわけ。おろしたら自分でものすごく心が痛むわけですよね。なんのために坐禅しているんだという思い。坐る前はね、もう本当に足なんかちぎれてしまえというか、命がけで坐るつもりなのにね、それは頭だけのことで、実際、足が痛くなったら辛抱しきれなくなる。『どうしてもいけなければどうするか』というようなものが一番具体的な形で出てくるわけです。だから、『形無き自己』は、結跏において私には課題があったわけです。それで、久松先生が亡くなられる頃から坐禅が楽になりましたけれどもね、それでもね、なかなか、坐がすっきりするというのは、難しかった。結局、あの公案と一緒なんですよ。『牛過窓櫺』(ぎゅうかそうれい)、どうしてもしっぽが抜けきらないという、頭も胴体も抜けるんだけれども、どうしても、坐っておってね、まだ痛みが残ってね、すっきりしないという、それでそれを耐え通すことができないという、そういうことがあったんですね。まあしかし、それをいろんなことで、ずーっと平常道場へ来ながら、久松先生が亡くなられてから後、私の仕事が非常勤になりましたからね、それから、神戸の道場をやめることになりましてね、それでこちら(京都)へ来る機会が多くなって、京都へ来てみんなとやっておって、とにかく、その頃、自分なりに坐りきったと、左足の痛さに耐えきったということがあった。耐えきるということがないといけないということがねえ、『耐えきった時にですなあ。』という言葉が『坐ということを中心に』という中で、久松先生がそう言っておられるんですね。自分なりに耐えきったということがあってね、そのことがあってから、自分の意に反して足をおろすということがなくなったんですね。と同時に、それなら足の痛みがなくなるかといったら、まあ、そうでもなくてね、人間の意志の力で耐えきるということはできないことだと、肉体的にも精神的にもね、耐えきれないように、それはもう自己防衛的にね、耐えきれないように人間というのはできているわけですよね。それを意志の力で耐えきろうと、そういうことはできない。」

 

江尻「それがはっきり分かった。」

 

越智「だから、足が痛いと、それを耐えようと思っても耐えられないんですよ。耐えようという思いを捨てた時に、こうリラックスして耐えられるんですよ。それで、そこで『不耐の耐』というね、耐えることをやめて、しかもそれで耐え通していくというね、それが『牛過窓櫺』の公案の中にも、(一隻眼を着け、一転語を下せ)というのがありますけれどもね、私のそれは『不耐の耐』」

 

江尻「それが一語。越智さんの一転語なわけですね。」

 

越智「その言葉が出たわけですね。それからはもう、坐ということは、私なりにどこへ出たって、誰の前へ出たって、私の坐はこれ以上でもこれ以下でもありませんという、自分の坐というものを見つけた。それはねえ、我々が坐るっていったって、専門の僧堂で坐っている禅僧とか、あるいは昔から偉い人が坐っている、そんなのと比べたら、いくらしても大したことないけれども、しかし、自分なりに納得する。それは『肯心を弁ぜよ』というのは『坐禅儀』の中にあるんですよ。自分なりに自分の坐に納得できたわけです。」

 

江尻「それは越智さんにとっては『牛過窓櫺』の公案が抜けたということと同じなわけですか。」

 

越智「まあそう思っています、自分で。」

 

江尻「そのしっぽが抜けきらなかった時期というのは長くあったわけですか。」

 

越智「それは長い。」

 

江尻「その間というのは、結局、自分がこの私の力でですね、その坐を我慢し通そうとか、そういう思いがね、ずーっとあったと。」

 

越智「まあ、そうだったでしょうね。」

 

江尻「そういうふうに思っていた間はね、頭と体は抜けているんだけれどもしっぽだけが抜けないという、そういう感じをずっと持っていたけれども、不耐の耐という、耐えずして実際耐えているというね、そこのところでスッとしっぽが抜けたと、そういう感じになったということですね。そういうことでいいんですかね。」

 

越智「まあ、そういうことです。それにはね、一度耐えきるということがね、久松さんが言われるように、『耐えきった時にですなあ』と、こう言われた。その言葉が常に頭にあった。やっぱり自分なりにね、もう、痛い、とにかく耐えきるというね、そこを耐えきったということが一回ありましてね。」

 

江尻「それはいつの話ですか。」

 

越智「それはもう、今から十年ぐらい前のことでしょうかねえ。十二〜三年ぐらい前かも知れない。」

 

江尻「それはどこでの話ですか。」

 

越智「それは家でですけどね。家で一人で坐っとって。」

 

江尻「自分の努力でというかね、この私の思いで耐えきるんだと、なんとか死にものぐるいで結跏を崩さないんだと、そういう思いでいくらいてもね、そうできない自分というものをはっきり意識するというんですかね、私の努力の結果、結跏趺坐がずーっと続けられるとか、そういうことはできないんだというね、どこかに明らめというか、はっきりさせるところがあるわけでしょう。結局、自分の意志の力で結跏趺坐を崩さないという、そういう自分の思い、そこがもうすでにどうしてもいけないというね、そんなことをいくら思っていてもですね、できない自分がいるんだというね、そういう、そこのところが基本的公案の『どうしてもいけなければどうするか』の『どうしてもいけない』という部分ですよね。私の、なんというのかなあ、自力で坐を通そうと思っても、通せないというね、そこが『どうしてもいけない』部分でしょう。しかし、自分としてはなんとか通したいと、通さなくてはいけないんだという思いはですね、自分の思いとしてはあるわけでしょう。」

 

越智「それはね、もっと具体的なんですわ。結局ね、坐るとフーッと何回か、別時なんかやっとったら、とても気持ちよくなる時があるんですよね。抜けたようなね。それは最初から坐って、ずーっと続けて坐って、大体、坐ってですね、特に左の足、私の場合は左の足、ちょっと昔、柔道をやった時に痛めたのがあるのかも知れないけれども、どうしても膝の痛みが抜けないことがありましてね、どうしてもここの痛みが消えないんですわ。これはしっぽが抜けないというのはそういうことなんですわ。だから、これが抜けるまで坐り通せばいいと、そういうふうに自分で思ってね、やるんだけど、それができないんですよ。なかなか最後の、ここの痛みが抜けない。だから、二時間も三時間も坐ったこともあるんですわ。どうしてもそれが抜けないような状況がね、ありましてね、それが耐えきれなかった。それを耐えきったということが、一度耐えきったわけですわ。『耐えきった時にですなあ』と久松さんが言っている、そのことが、耐えきってですね、ここの痛みが抜けたということがあったわけですね。その後ですね、それならいつでも足の痛みがなくなったのかといったら、決してそうじゃなくてね、その後、坐った時にね、その後で人間というものは自分の意志で痛みをこらえようとしてもね、そういうのは耐えきれるもんじゃないんだと気がついた。気がついたのは寧ろその後なんですね。」

 

江尻「先に耐えきったという事実があったということですね。」

 

越智「あった後、がむしゃらに耐えきろうと思ってもね、耐えきれるもんじゃないんだとはっきり分かった。そこで、考えてみたら、足が痛い時にね、自分は、それまでもそうしていたけれども、いつでもどうして耐えているかというと、結局ね、耐えよう耐えようと思っている間はものすごくいたいわけですわ。痛みに自分を任せると、痛みと一つになれということをしょっちゅう言うんですけれども、耐えるという意志を捨てる、それで痛みに自分を任せると、痛みに任せた時に耐えられているわけですよね。」

 

江尻「それは私の意志、私の努力、私の自力じゃないということですね。」

 

越智「う〜ん、まあ、言葉として言えばそういうことでしょうかねえ。まあしかし、自力とか他力とか、あんまりそんなことは…、その時は自力他力ということよりは、痛みに耐えようと思うか、それを捨ててしまうかという、耐えようという気持ちを捨てて、痛みに任せるということ。もう体全体痛みになれというかね。」

 

江尻「もう、お任せの世界ということですか。」

 

越智「まあ、そういう…、とにかく痛みに自分の意志で耐えようと思っている時は耐えられない。痛みに任せようとなった時に解け始めて耐えられる。そういうことはもうしょっちゅう、細かいことでいえばずーっと何十年もやってきたので何回もありましたね。でも、それがはっきり自覚できたのは三十年ぐらいしてでしょうねえ、結跏をはじめてからね、三十年以上経っているでしょうねえ。三十四〜五年ぐらいした時だったかも分かりませんね。六十四〜五歳の頃だったかも知れませんねえ。それからはもう、痛くて耐えられないということはなくなってしまったというか、そんなに三時間も四時間もいつも坐っているわけではないし、二時間ぐらいまでだったら、家でも坐ったり、別時でも坐ったりしましたけれど、耐えきれるようになりました。だから平常道場へ行っても、行(繞)道せずに坐り続けたりしましたね。僕の一つのめどはね、二時間動かず坐るとね、その左足が解けるというようなね、感じでしたね、その頃はね。」

 

江尻「その頃はというのは、もう随分前のことですか。」

 

越智「二十年ぐらい前のことですかねえ。」

 

江尻「その頃は自分としては二時間ぐらいは続けて坐りたかった。」

 

越智「なかなかそれが坐れないというね、だけど、二時間坐れば大体解けるだろうと、予感は在るんだけれども、なかなかねえ。それは痛くなったら、こんなことしたり、あんなことしたりして、体をもぞもぞ動かして坐ったこともありましたけれどもね、別時に来てね、朝の九時から十二時までずーっと坐り通したこともありますわ。まあ、その辺のところ、正確に表現できないけれども、やっぱりそういう、耐えるということを捨てるということにおいて、それで問題が終わるかというと、耐えるべき事は他にいっぱい、常に、無限にあるわけで、それで『不耐の耐』ということが出てきて、だから、耐えるということは、結跏だけの問題じゃなくて、人生全体において耐えるべきことはいっぱいあるわけで、それも同じことであってね、耐え通さなきゃいけないわけですね。耐え通さなきゃいけないけれども、歯を食いしばって耐えるというんじゃなくて、解放した形においてね、耐えないという形において耐えていくという、なんかそんな感じがね、するんですよ。まあ、しかし、そのことでね、『不耐の耐』という、自分で坐り通して、どうしてもいけなかった時点を乗り切るまで坐り通した時にね、結局、牛のしっぽが一応通ったというね、それを得た後は、自分で坐れないということはなくなった。どこへ出したって私の坐はこれだけ、どんなに偉い禅僧と坐ってもね、誰にも負けないという、そんな、別に長時間坐る競争をするわけじゃないですけれども、私の坐はこれ以上でもこれ以下でもないという、誰にも、自分なりの坐として負けないといいますか、そういう勝つとか負けるとかいうことを超えたという感じなんですよ。」

 

江尻「そういう確固としたものができた。」

 

越智「まあ、自分の坐というものにね。それが非常に具体的な形で『どうしてもいけなければどうするか』という、坐においてね、端的に、足をおろしてもいけない、坐り続けようとしてもいけない、どうしてもいけない、どうするかという、それが一番具体的な形、基本的公案のね。それを振り返ってみると、人生のいろんなこと、上役が気に入らなくてね、こんな奴、殴って辞表を叩きつけてやろうかと思っても、家族のことがあるからそれはできない。どうしてもいけなければどうするか。仕事をやる場合もですね、レッスンプランをつくらなくてはならんけれども、どうしてもね、ニーズがはっきりつかめないということがあるんですよね。もう練って練って練るんだけれどもね、どうしても自分の満足できる、自信の持てるレッスンプランができないで、それでも〆切がくるんですよ。こんなもんね、ニーズが分からないから私は担当できませんって言って断るわけにはいかんわけですよ。生活がかかっているから。そうかと言って、いい加減なことをやるということは辛いしね、結局、どうしてもいけなければどうするかと、最後、ええも悪いもあるかという開き直りで、それで行ってね、最初に研修コースのオリエンテーションをやるでしょう。管理者グループ相手でもね、会社からこうこうこういう注文でね、こういうことをやってくれと言われたけどね、ずーっと現場を見せてもらったし、担当者の話も聞いたし、自分なりにプランを立ててみたけれども、どうしてももう一つ、何がニーズのポイントなのか、よく分からないんですと、最初からバーンと出すとね、その方がね、かえってね、向こうのメンバーから本音が出てくるわけですよ。実はそれはこういうことがあってとか…」

 

江尻「その話は以前、どこかで言っておられますよね。」

 

越智「そうですね。だから、そういうことはね、結局、いいも悪いもあるかと、それが、まあ、仕事の上でそういうことだったわけだし、それから上司をぶん殴ってというのは、これはもう、できないから、会社から帰って坐るわけですわ。坐って足が痛くなるとね、足の痛みの方が強くてね、しゃくに障っている気持ちがどこかに消えてしまうという、そうすると自分が反省されてね、あいつが悪いとばかり思っていたが、私もこういう点がちょっとまずいんじゃないかと、そういうことで上司との間で一つ新しい関係が開けてくると、そんなこともありましたけれどもね。まあ、それから坐るということについてですね、今度はそういう具体的な生活上の問題ですね、『どうしてもいけなければどうするか』投げ出すということは、耐えない、不耐ということ、つまり、投げ出すということ、それはつまり『応無所住而生其心』というようなことになるんですね。だから、例えば中国旅行に昔の同窓の連中と行ってね、二十人ぐらいのメンバーの団長をやらされたんですね。そしてね、その当時、北京の空港なんてね、人の海でね、その中をぬってね、ここで荷物を預けてね、ここで荷物を取るとかね、下手したら荷物がなくなるとかね、もう、とっさに判断せんならんことがあるわけですよ。こうしてもいけない、しなくてもいけない、どうしてもいけない、それは具体的なことだからね、いつでも『応無所住而生其心』というような感じでね、パッと自分を捨てる、捨てたところでフッと直観的に湧いてくることでバッとこう、決断していく。それでやっていくと、一つのリーダーシップがね、発揮できてね、それで大過なく旅行を終えたというようなこともありましたけれどもね。具体的なリーダーシップをとっていくという時でもね、『応無所住而生其心』という、一旦自分を空っぽにすると、そこに直観的に出てきたもので決断していくという、そんなことですね。そういうこと、いろいろありましてね、後一つは、非常にはっきりとした具体的な印象としてはね、オランダへ行った時にね、五十人ぐらいの老若男女の直日をやってくれと言われてね、とても責任を感じたわけですわ。もうこれはやっぱり、『大死一番』というかね、『大死一番絶後に甦る』という言葉がありますね。自分の直日のリーダーシップ如何でこの五十人近くの人の坐に影響を与えると、まあ、自分の勝手な、オーバーな思い込みかも知れませんけれどもね、そういうFASの会で、こういう外国の人達のリーダーシップをとらなければならないというね、それをどうして果たすかという時にね、もう自分の力でできるとは思えないしね、そうかといって『できません』と言って逃げるわけにもいかない。どうしてもいけないどうするか、それは結局、『懸崖に手を撒して、大死一番絶後に甦る』その言葉が頭にあったし、道元の言葉『わが身心を放ち忘れて、仏の家に投げ入れて…』そういうことも頭にあった。とにかく『どうしてもいけなければどうするか』という、そこでは結局、もう、ここの場で、直日の場に坐っておって、ここで死ねたら、むしろ光栄なことというか、自分としても恥ずかしくないことになるんじゃないかと。交通事故で、飛行機が落ちるか分からん、そんなことを思ったら、こういう直日の坐でね、死ねるというのは、むしろありがたいことだと。その時にね、少しでも五十人ぐらいのメンバーの人のためにね、役立つというね、そのために自分を投げ出すという、そういう気持ちになった時にね、頭の中に『懸崖に手を撒して…』の公案があった、それがね、こう岩にぶら下がっている、その手がね、知らない間に離れていたという、妄想といえば妄想ですよね、公案の工夫といったって。少しでも人のためになればいいと、役に立てばいいと、もう自分を捨ててね、少しでも役に立てばいいと、この坐で死ねたら本望だと、そういう思いになった時にね、やっぱり自分の為だけじゃなしに、少しでも役に立てばと、そうなった時に、気がついたら手が離れていたと、あっと手が離れたら、海面に叩きつけられるはずがね、いつまでたっても水面がやってこない。長いんですよね。“ははーん、これが「永遠」というものか”というね、感じがした。ナンセンスだ、そんなことはね、坐っていてね、手を離して水面に落ちるはずがない。しかし、その時に、“ああ、これが「永遠」というものか”と思ったね。離そうと思ったら恐くて離せないですよ。どうとでもなれと思った時に知らぬ間に離れていた。離れたのに水面が来ないと、それがひとつと、それからもう一つはね、二年目に行った時の、今度は数十人の人を相手にね、相互参究をやれと、まあ、一対数十人という形でね、それがスケジュールに入れられてね、向こうの人が、誰か一人が出てきてね、私の前で正座して、こう合掌してですね、模範的な形で来たんでしょうけれども、その前に、それをやるということがね、委員会のプランでできて、常盤さんなんかはいろんな話をしたわけです。相互参究の話もしたし、ポストモダンの話もした。私はしかし、一対五十でね、やりとりをしなさいと、質問を受けろという、それが自分にできるかできないか、とてもできるという自信もないしね、そうかといって逃げるわけにもいかん。『どうしてもいけなければどうするか』こうなるともう坐るよりしょうがないですね。もう必死になって、それが決まってからその日まで、もう必死になって空いた時間坐ったですよ。そしてその日の暁天坐の時だった。もう本当に『どうしてもいけなければどうするか』という、その時にフーッと『無一物中無尽蔵』というね、そのことを書いてあるものもありますけどもね、とにかくもう四方八方境がなくなってね、そのくせ時間というものが後から後から湧いてくる有り難さというかね、無一物であって無尽蔵であるというね、それは『どうしてもいけなければどうするか』という公案を粘提している時に、現実的な課題を追いながら、『どうしてもいけなければどうするか』と粘提している時に、そういう状況が出てきたんですね。それはもう忘れないですね。いつでもそれを思いだそうとすれば思い出せるというか、その状況というものはこうだったという、だから、今でも、坐っておっても、『どうしてもいけなければどうするか』という、集中しないといろんなことが浮かんでくるから、『どうしてもいけなければどうするか』という状況において、そういう…、なかなかね、『無一物中無尽蔵』という、そこまでいい気持ちになるということは稀ですけれどもね、まあしかし、この頃、坐っていると気持ちがいいんですわ。」

 

江尻「今の越智さんにとってね、坐というのは、道元なんかも言っていますけれども、大安楽の法門であるということを言いますよね。坐っていることが非常にもううれしいというか、ありがたいというか、まあ、楽しいと言いますかね、本当に大安楽の法門なんだと、そういうところにいるというか、そういうふうに思えるようになったというか、坐がそこまでになってきたというんですかね、そういうふうに言っていいんでしょうかね。今のお話をずっと聞いていたら、結局、『どうしてもいけなければどうするか』という基本的公案を、越智さんの場合はずーっと粘提してきて、それで、その中で『不耐の耐』というね、落ち着きどころというんですかね、一つの答えを見出したというところがあると思うんですね。だから、『どうしてもいけなければどうするか』という基本的公案の一つの答えとしてね、『不耐の耐』、それは他の人は他の人でいろんな言い方があるだろうし、捉え方があるだろうけれども、越智さんにしてみればね、『不耐の耐』というのがね、基本的公案の自分なりの答えというんですかね、行き着いたところと、そういうふうに言っていいんでしょうかね。」

 

越智「そう言っていいでしょうね。」

 

江尻「どうもありがとうございました。」

 

                     話し合いの後、越智さんが最近つくった歌が二首あるということで、ご披露いただいた。

 

葛藤の絶ゆることなき地球なり

         わが身貫け世界の痛み

 

人世に訣るる思いかくあらめ

      わが身こころの消ゆる豊けさ

 

〈了〉