第一五七回別時学道反省会(冬の別時最終日)

 

参加者―斎藤・江尻・大藪・法橋

 


  二○○三年、冬の別時学道最終日、最後に残った参加者全員で、今回の別時についての反省会を行った。しかし、話し合いは今回の別時の反省だけに止まらず、これまでの別時学道、並びに平常道場の反省にまで及んだ。以下に、その時出された反省の数々(中には後で感想として提出していただいたものも含まれる)を掲載することにする。                   

                     (文責―江尻)

 

1.平常道場や別時道場での論究のとき

(一) 質問のこと

・講師の方の話しは,いつも価値があると思いながら聞いているが,なかなか

理解できないところがあったり,本当は,もう少し詳しく具体的に,聞きたいと思うことがある。しかし,そのようなときに自分の知識が足らないために,質問するのに気がひけてしまう。

・各人の知識のレベルの幅または差があるために質問しにくいところがある。

したがって,そのようなときにやさしい質問でも,レベルの低い質問でも,お互い歓迎するようにして,また,お互いにそのような質問を大切に扱かうような空気になればよいと思う。

・会に参加する人はどなたも,先生方の話しを出来ればよく理解したいものと思っているでしょうから,そのような会になればFASの別時や平常道場は参加者にとって役に立つと同時に,より楽しい会なると思う。

 

(二) 質疑のときにお互いにバックアップする

・論究内容の理解をより深めるためにも関連質問をしながら,お互いにバックアップするようにしたい。

・質問しているとき,他の人がもっと別な面から丁寧に説明してくれればよいと思うときがある。

 

(三) 内容理解の困難さ

せっかくの講義が十分に理解できないのはどうも,理解する場合に一種の階段のようなものがあって,それを上がれな

い。一段ずつ上がるならば,理解できるのだろうけれども,何段もあるとどう

も一度には上がれないように思う。

 

2.毎週のテーマ

・あまり固定されるよりも,内容に変化がある方がよいので,テーマは毎週ち

がっていてもよいと思う。

 

3.別時道場の内容

・平常道場には参加されず別時道場のみに出席する人もいるので,別時におけ

る論究会はそれまでの,平常道場でおこなっていた内容を踏まえた上で,あるいは復習を含めた上で論究の話しをお願いしてはどうか。

 

  以上のことの前提条件として,会に参加して内容を十分理解したいのであ

れば,基本的には,自らも勉強するべきであるし,また自ら前もって予習をせ

ねばならないことは当然のことと思います。

 

・道場の中で徹底的に坐禅したり、論究したりして、お互いの自己を究明していこうというのが本当ではないか(別時学道にしても平常道場にしても、お互いの自己を究明し合うことがメインテーマではないのか)。

・今回の別時でもそうであるが、提綱の時間の大部分を提綱者の話が占めてしまい、質疑応答の時間がほとんどないので、その提綱についての話し合いが十分できない。また、初日の提綱と次の日の提綱が別々(人・内容とも)なので、提綱について別時中にじっくり深めるということができない(それぞれの提綱がそこでポンと切れてしまうような感じになる)。

・別時学道の意味を考えた場合に、その期間中、徹底的に坐る(坐を深める)ということは非常にいいことだと思う。暁天坐ができるということも素晴らしいと思う。しかし、別時は坐禅だけがメインだということであれば、禅寺の坐禅会と何も変わらないのではないか。むしろ、坐禅を徹底的に組むということだけが目的であるというなら、僧堂の摂心に参加する方が意味があるということにならないだろうか。

・禅寺の摂心とFASの別時の違いはどこにあるのだろうか。お寺の摂心の場合、老師の提唱というものがあるが、別時ではそれに代わるものとして提綱というものがある。提綱というものが別時における一つの目玉だと思うが、その内容があまりにも専門的な禅の話や、哲学の話となると、一般の参加者には難しすぎるのではないか。難しい話をただ聴いて、それについてじっくり質問したり、意見を述べたりする時間がないというのは問題ではないか。

・FAS協会には相互参究という素晴らしい修行方法があるわけだから、これをもう少し取り入れたらよいのではないか(別時や平常道場で大いに活用する)。

・現在、別時は二泊三日程度で行われるが、初日に提綱をもってきた場合、二日目、三日目はその提綱についてお互いに深めていく相互参究(提綱者も参加できればもっとよい)の時間に当てるというようなやり方をした方がよいのではないか。

・今回の別時の提綱の中でも、いくつかそのことについて相互参究していったら面白いのにと思うようなものがあった。しかし、実際はそれをするための時間を取っていないため、結局、尻切れトンボで終わってしまったように思う。

・ただ一方的に提綱者が話をして、参加者はただ黙ってそれを聞いているということだけで終わっていたら、意味がないのではないか。

・別時にしても平常道場にしても、終わった後、またこの次も来たいなあという気持ちが湧いてくるようなものでないとだめなのではないか。

・参加者みんなが気軽に相互参究し合える(自分もその話の中に入っていけるという)雰囲気を作って行くべきではないか。

・平常道場では二時間の論究の時間を取ってあるけれども、講師の人の話が長いため、いつも残りわずかの時間で論究するということになってしまう。もう少しみんなで論究する時間も確保すべきではないか。

・現在、平常道場は月四回、別々のテーマで行っているが、これも一度検討してみてもいいのではないか。

 

・要は今の道場が、魅力ある道場であり得ているのかどうかである。その一つのバロメーターは新しい会員、有力な会員をいかに確保し、養成し得てきたかどうかであるが、この点から見ても今の道場のあり様は大いに疑問である。新しい参加者にとって、最初に一番の問題となるのは、論究や提綱をどう感じるか、魅力を感じるかどうかであろう。

・魅力ある論究や提綱とは、はじめて参加した人にも、その内容がいかに門外漢なものであり、高度なものであったとしても、何処かでわかる、その人のこころの琴線になにがしかでも響くものがあるならば、魅力を感じられるのだと思う。坐禅でもやろうと、考えられたその人には、その人が意識する、しない以前に、自己存在としての苦悩があるはずであり、その琴線にいかに道場が機敏に添いえているかが大切なのだと思う。

・論究や提綱が、ただ程度の低いものであればよいと言うようなことではない。むしろ要点は何をやっても高度で、難しいものであるはずだが、その難しいところを、どう咀嚼して、はじめての人にも響くものになっているかどうかにある。高度な専門的知識の素養がないとはじき出されてしまうような道場であってはならないのだと思う。

・根本問題を噛み砕くということは難しい。だけど、自己存在の苦悩の問題は生身を生きる誰もの問題であって、知識があるなしにかかわらず誰もが発言できる問題でもあるはずである。論究や提綱の場を、知識伝授の場から、問題提供の場にしていく改革が必要だと思う。

・たとえば、現状のようにテキストが現代語訳され、専門用語が解説される、これはこれでよい。しかし、この後で、誰もが自由に発言できる場、何を聞いても受け入れられ、恥ずかしく思わなくてもよい雰囲気の中で、根本問題を参加者みんなで噛み砕く、自分自身の生身の問題として、出席者全員の相互参究の中で咀嚼し、一人ひとりが自分のものにしていくという、そういう場にしていくならば、魅力ある論究や提綱になっていくのでないかと思う。

 

                     道場についてつれづれ思うこと

    (一)

  私は平常道場にほとんど出ないで、別時にちょいちょい顔を出すのですが、平常道場の参加者が京都市内の方ばかりかと思っていた。しかし、割合、遠方から常時参加されている方がいるので驚いています。私の場合、参加しようと思うと片道三時間半、往復で七時間かかりますから、現役が終了するまでは別時で己事究明を深めていきたいと考えています。

  今回、参加して、数は少ないけれども、道心堅固な集まりだなあと感心しています。「一箇半箇の打出」という言葉がありますが、時代の変化に適応しつつ、本来の創立の精神を守って会が存続していくことを切に望みます。

  私のFASの印象ですが、久松真一さんという数百年一人出るか出ないかといわれるような人の下に、京大の哲学とか文学、仏青(仏教青年会)の人達が戦前から集まって学行を深めるという伝統があって、戦後、一般の道心のある居士まで参加を広めて現在に至っているのですが、京都の土地柄からいってもっと学生さんが多く参加しても不思議ではないと思うのですが、どうしてか少ないように思います。仏教系の大学だけでも龍谷、大谷、花園をはじめたくさんの大学があり、禅と関係の深い芸道の家元もあり、関心のある人が多くいるのではないかと考えるのですが、残念でなりません。

  東大の仏青出身で唯識をやられている横山先生などは、大学のゼミの学生と煙草のポイ捨て拾い等をやったりして、身近な活動で教化されていることを思うと、先程言った、たくさんお寺があり、伝統的な歴史文化がある京都で、なぜ会が細っていくのかもう一つよく分かりません。一つには宣伝が足りないのか、PR不足なのか。別時の案内にしてももっと工夫があってもよいのではないでしょうか。二つ目には、学者、研究者が中心になっている会の構成から、どうしても社会人や一般学生が参加しても、何か発言しづらい雰囲気があると思います。久松先生とは直接お会いしたことはないのですが、先達の方にうかがった話では、対機説法というか、一般大衆にはその人に理解できる言葉で話したり、立居振舞いという態度で示したりされたそうです。本当の覚者というのはあまり難しい専門用語を並べ立てて、仲間内でしか分からない言葉で論究するものではないと思うのですが、いかがでしょう。多分、初参加者がおられればびっくりすると思います。大衆禅を名乗っているならもっと大衆にアピールするにはどうすればよいか考えるべきだと思います。

    (二)

  平常道場が少ない道人の参集で継続されていることに敬意を払いたいと思います。是非その日常の成果を基金を使って書籍の出版という目に見える形で社会にアピールしたらどうでしょうか。常盤さんのライフワークとして取り組まれている現在進行中の「楞伽経」の論究などは後世に残る地道なFASならではの成果になるのではないでしょうか。常盤さんの編された「白隠」でも、あとがきでFASのことを熱い言葉で語られている部分があります。読んだ人が感心があれば会にも参加される機縁が出てくることも考えられるのではないでしょうか。

    (三)

  別時については参加者が常時同メンバーであることから、初参加者を念頭においていないようで、初めての方をお誘いしようと思っても尻込みしています。一日のタイムスケジュールとか自由時間、お風呂の時間、初心者が気になる点を整理して準備(書き物にしておく)したらどうでしょうか。

    (四)

  協会もこれだけの歴史を積み上げてきたのですから、「風信」のバックナンバー等を合本にして整理し、(二)で述べたような記録として残しておいたらどうでしょうか。

    (五)

  FAS関係の今までに放映された映像を協会のPRに利用する手だてはないのでしょうか。私が会の存在を知ったのもNHKの宗教の時間(現在は「心の時代」になっている)での番組でした。今ならばビデオにとって再見できるのですが、視聴に訴える力は書籍よりも直接的で大きいと考えます。

    (六)

  Eさんも提案されていたと思うのですが、もっと「対話交流」の時間を多く取って、論究者との心の交流を図るべきです。難しく分かりにくい論究提起は、多分その人本人も迷っているか、分からないからかも知れず、対話が機縁となって新しい「気づき」や「発見」があるかも知れません。

  某団体の三つの信条と五つの誓いというのがありますが、FASの言っていることを大衆にも分かりやすい形で表現した言葉だなあと思っています。

[三つの信条]

@素直な心でみんなに学びましょう。

A素直な心で考え話し合いましょう。

B素直な心で行動しましょう。

[五つの誓い]

@                     進んで人の話を聞く心を養いましょう。

A                     人に甘えず自主的に考え自力で行動しましょう。

B                     公私のケジメ、時間のケジメをつけましょう。

C                     お互いの約束事は必ず守りましょう。

D                     人に親切にし、思いやりの心をもって互いに許し合いましょう。

    (七)

  新しい会員と共にいつも気になるのは古い会員で会から離れていったり、遠ざかっていった人達です。なんとかまた参加していただき交流を図れないかと思います。日本の集団には「近親憎悪」「嫉妬」といった蛸壺的性質がありますが、これだけ社会も世界も変化したのですから、つまらない道人間の人間関係が原因で参加を見合わせている人達がいるとしたら呼び戻したいものです。

  そういう意味でOさん達がやっている傾聴ボランティアの手法を会としても大いに活用すべきではないでしょうか。

  以上、平常道場に参加していない者のたわごと願いごととして理解していただければ幸甚です。      〈了〉