加藤二郎さんを悼む 

 

           常盤義伸

 

 昨二〇〇四年十一月初め、会員・加藤二郎氏のご著書『漱石と漢詩ー近代への視線』翰林書房、初版十一月五日発行の書物一部が夫人・慧さんから協会への謹呈本として、協会事務所を設けてくださっている湖海昌哉氏を経て林光院の平常道場に届けられた。その題名に惹かれて私が拝見した編集者「後書」などに依って、次のことを知った。

 加藤氏は一九五〇年生まれ、東北大学文学部国文学科ご卒業、同大学院博士課程修了、宇都宮大学教授であられ、中国ご滞在中に国際結婚をされたあと二十年を経ておられたこと、平成十四年(二〇〇二)八月九日ご自宅でお仕事中に、五十一歳のお若さで急逝されたこと、生前のご著書が『漱石と禅』翰林書房、一九九九年十月初版発行であること、『漱石と漢詩ー近代への視線』は、研究者仲間の方が遺稿を編集出版された、第二冊目のご著書であること、亡くなられる一ヶ月後には北京で「漱石国際シンポジウム」にご夫婦で参加されご本人は「漱石と辛亥革命」について発表を予定されていたこと、生前に北山正迪氏とご親交がおありであったことなど。

 漱石と漢詩、漱石と禅、いずれのテーマも嘗て正面から取り上げられたことのない、しかしきわめて重要なものというぐらいの認識だけは持ち合わせていた私は、ぜひこの二冊の書物を拝見したいと考え、早速『漱石と漢詩ー近代への視線』を読ませていただき深い感銘を受けた。

  そのことを簡単な感想として慧夫人宛に礼状を認め、謹呈本を林光院での集まりにお返しした。十二月下旬初めに宇都宮ご在住の慧夫人から今度は私宛に『漱石と禅』一部をご恵送いただくという申し訳ないことになった。添えられたお手紙によると、加藤氏が協会の会員になられたのは、私の推測通り北山正迪氏のご紹介とのこと。山形ご出身の加藤氏を「父親以上に可愛がって」くださった五十嵐明氏(山形大学元学長、この時点で九十二歳でご壮健)と北山氏とが京大同期生(文学部名簿によれば五十嵐氏は倫理学ご専攻)の「ご縁で」北山氏とも親しくされたこと、北山氏の晩年あたりから加藤氏との往復書簡が「週に二・三封ほどの頻繁」さであったこと、親子のような年の差なのに友人同士のような親密さであったこと、北山氏のご逝去からあまり年月を隔てずにご主人が去られたことが奇縁に思われること、そして私に此の書物を贈るのは、ご主人が生前宗教学の学者との交流を一番願っておいでであったからとのこと、などを丁寧な書体で記されてあった。今年一月、この書物を通読してそのなかに北山氏の論文への言及があること、漱石の禅への関わりをこれだけ集中的・本格的に取り上げた人は皆無と思われること、前田利鎌(まえだとがま、『宗教的人間』の著者)という人物が漱石の問題意識を確実に継承したとされることなど、学ぶことが多かったが、今回改めて全体を読み通し、漱石の禅への深い関心と同時に著者・加藤氏の禅へのご傾倒に目を見張る思いであった。加藤氏が禅の思想を研究するものと意見を交えたいと考えておられたと慧夫人がお手紙に述べておられる、生前のそのご心境に心を打たれ、簡単な所感を記してご早逝を悼む拙文として捧げたい。

 私は夏目漱石の作品を、中学生のころ難しい表現が一杯あるにも拘らず何か夢中になって幾つか続けて読んだあと、まったく遠ざかり、戦後ずっと後になって岩波書店発行の全集を縮刷版でそろえたものの、どれもまだ本格的に読んだことがない。大学の教養課程英語担当の教員生活を始めた頃しっかり読もうと入手していた昭和四十一年発行の菊判の『文学論』を今度、加藤氏の著書に触発されて少し読み始め、その構想の堅実さ、壮大さ、集められた資料の内容の際立った面白さ豊さなど、すべてに大変な感動を覚えると同時に、ここに見られる材料が集められた段階で漱石という人は後日の作品群の展開をすでに見通しておられたことを感じた。今はしかし、文学論を始め他の諸々の作品を読むことを後にして、加藤氏が紹介される漱石の禅への考え方のポイントを辿ってみたい。

 『漱石と禅』二百七十頁、全十章の原題と初出とは、著者に依ると、次の通りである。

一「漱石と達磨」『菊田茂男教授退官記念 日本文芸の潮流』桜楓社、一九九四年所収 

二「漱石に於ける「歩行」の問題」『國語と國文學』第五九巻第四号、東京大学国語国文学会、一九八二年所収

三「漱石と『禅林句集』」『外国文学』第二十九号、宇都宮大学外国文学研究会、一九八一年所収

付、「『行人』ー終わりなき行人(たびびと)ー」『國文學』第三十九巻七号、学燈社、一九九四年所収

四「漱石の『一夜』について」『文学』第五十四巻第七号、岩波書店、一九八六年所収

五「婆子焼庵ー『草枕』或いは『こころ』ー」『宇都宮大学教養学部研究報告』第二三号第一部、一九九〇年所収

六「漱石と禅ー『明暗』を中心にー」『文芸研究』第八七集、日本文芸研究会、一九七八年所収

七「「明暗」考」『外国文学』三五号、宇都宮大学外国文学研究会、一九八六年所収

八「『明 暗』論ー津田と清子ー」『文学』第五六巻第四号、岩波書店、一九八八年所収

九「生死の超越ー漱石の「父母未生以前」ー」『文学』季刊第九巻第四号、岩波書店、一九九八年所収

十「漱石の水脈ー前田利鎌論ー」『日本近代文学』第三三集、日本近代文学会、一九八五年所収

 このうち第五章は、「鎌倉漱石の会」での講演「婆子焼庵ー漱石と禅の一面」(昭和六三・一二・四、於円覚寺塔頭帰源院)をもとに、論攷化したもの、だという。第九章初めに著者は、漱石が明治二十七年暮れから二十八年初めの十日間この帰源院に止宿して円覚寺の釈宗演に参禅したことを取り上げておられる。漱石と禅との関わりの研究分野で著者が生前にえておられた評価の高さが窺い知られる。

 後書で著者は、漱石が関心を示した禅を取り上げるご自分の基本理解を次のように述べておられる。

 「併し本書を流れているより基底的な思惟と意図は、むしろ漱石の人及び文学の歩みの中に、禅仏教そのものの近・現代的な生成と展開の姿を見ようとする所にある。こうした言い方に奇異の感が免れないとすれば、それは既成宗教というものの強力な規制ということに外ならないであろう。併し禅宗はともかく、禅は、もとより禅宗寺院の中にのみある訳ではない。玄冬を吹き抜ける一陣の風にも禅はある。漱石が生涯の折々に立ち返って行ったのは、そうした禅であった。」

 第一章「達磨」冒頭には、明治二八ー四五年の間に作られた漱石の達磨関連の俳句を九首挙げる。そのうち

 「春風に祖師西来の意あるべし」(明治三二)

は、加藤氏の後書の言葉「玄冬を吹き抜ける一陣の風に禅はある」の由って来る所のようである。加藤氏は、漱石のこの句が、「春風のその所謂風性そのものの内に達磨西来の意、即ち禅の宗教的生命を観ずるということであろうか。」とされ、禅者の問答にとりあげられた風のテーマを幾つか指摘される。加藤氏は、漱石がなぜ達磨を取り上げたのかを問うて、漱石の『文学論ノート』(明治三十七、八年頃)に「超脱生死」の標題の下に記された禅を論じた文章の末尾の数行の覚え書きの初め一行「達磨曰く吾既に汝をして安心せしめ了んぬ」を引き、その出典を『無門関』第四十一則「達磨安心」の章に求められる。それに明治三十八、九年の「断片」を重ねて、加藤氏は云われる。

 「「開化」の時代、即ち近代に於ける「安心」の欠落を言う漱石の視線が、達磨の「安心」へのそれと交叉していたとしてもそこに不可思議はない。漱石に於て禅とは、そういう近・現代への根柢的な問にかかわる事柄であった。」(七頁)

 漱石の言葉では、これは、

「人間の不安は科学の発展から来る。進んで止まることを知らない科学は、かつて我々に止まる事を許してくれた事がない。」(『行人』塵労三十二)

「根本義は死んでも生きても同じ事にならなければ、何しても安心は得られない。」(同前四十四)

ということだ、とされる。このあと漱石筆の達磨の水彩画を取り上げ、『草枕』に登場する禅僧大徹と画工との対話で達磨画は「無邪気な画」でよいと評することにも触れられる。最後に漱石の俳句

 「本来の面目如何雪達磨」(明治二八)

を再出して達磨と慧可との問答に戻り、ここに漱石が「文字通りの『こころ』を書き、書かざるを得なかった」根本的な問として「近・現代の歴史の現実の中での「安心」の問題」があったと思われる、とされる(十三頁)など、論述は綿密でしかも根本をつくものである。

 第二章「歩行」は、人間が歩くこと自体が不能になった姿を問題にする。『行人』(大正一ー二)の長野一郎の姿が「塵労」篇の「Hさんの手紙」で次のように語られている。

「兄さんは落ち着いて寐てゐられないから起きると云ひます。起きると、ただ起きてゐられないから歩くと云ひます。歩くとただ歩いてゐられないから走(かけ)ると云ひます。既に走け出した以上、何処迄行っても止まれないと云ひます。止まれない許(ばかり)なら好いが刻一刻と速力を増して行かなければならないと云ひます。其極端を想像すると恐ろしいと云ひます。……怖くて怖くて堪らないと云ひます。」(『行人』「塵労」三十一)

 加藤氏によると、一郎が「歩行」を回復したいという意志は「思い掛けない宗教観」(「塵労」四十三)として語られる。一郎の言葉「神は自己だ」「僕は絶対だ」(同四十四)などの指し示す「絶対即相対」の方向は、「伝統的な既成宗教」が「「絶対」と「相対」との距離を無限大におくことに宗教性の源泉を求めてきたから」、「思い掛けない」と云われるけれども、「即」の  宗教とも云うべきその宗教観こそ「病める現代がその自己超過に不可欠な宗教性の時代的要請」だ、とされる(三十頁)。漱石最晩年(大正五年)年頭の『点頭録』に

 「終日行いて未だ曾て行かず」

と記される言葉に加藤氏は、「自己の歩行に即した漱石の存在把握の披瀝」を見、「こうした漱石の究極的な現実観が、作中人物に於ける「歩行」への検証を媒介とした、長い持続的な思惟の所産にかかるものであった」とされる。さらに、「「歩く」という様な日常の瑣事もその根柢では宗教性を離れてあるのではなく、深く宗教性に触れつつ所謂「不可得」の相に於て体験されるものであるという、そうした人間の現実というものを言わば平常底に於て観じつつあったと」云ってよいとされる(三十四頁)。

 第六、七、八章はすべて「明暗」ないし作品『明暗』に関わり、特に第六・七章は「明暗」の語義の検討を基にして漱石の最終的な現実観を考察する。そのなかで加藤氏は特に次の二点を問題にされる。

 「『明暗』に於て漱石は、近代の科学的知性の脆弱さ…を中心的な問題として取り上げ、その時の「近代」批判の根據を禅の「明暗雙雙」つまり「理事無礙」の場に求めていたと考えられるが、そうした『明暗』の筆を進める一方で漱石が、伝統禅の「没論理性」とそれに起因する言わば「社会性」の欠落への批判をも同時に行なっていたという事情が認められる。」(一三四頁)

 このあと加藤氏は漱石の漢詩、七言八句を二つ挙げる。第一の詩(大正五・八・一六作)の最後二句と第二の詩(同九・二三作)の初め四句は、各々次の通り(加藤氏の訓読)。

「借問す参禅の寒衲子 翠嵐何処か塵埃を着けん」

「漫に棒喝を行ひて縦横に喜ぶ 胡乱の衲僧は生に値せず

長舌禅を談じて得る所無く 禿頭道を売りて何をか求めんと欲する」

 これらの表現に関連して加藤氏は云う、

 「「明暗雙雙」即ち「理事無礙」の場に視座を据えた漱石からすれば、近代の知性の「論理」は崩壊を免れ得ないものとして、それはより根柢的な「論理(暗=理)」への脱皮を不可避のこととされていたのであり、その窮極的な「論理」の立場を漱石は、趙州や『金剛経』などの中に具現され、已に普遍性を獲得した禅の宗教的真実の内に認めていたと言える。しかもそうした言わば超時空間的性格を指摘できる禅の立場からすれば、既成宗教としての禅教団は、その没論理性とそこに起因した社会性の欠落への批判を免れ難いものとして漱石には捉えられていた」(一三五頁)と。

 加藤氏はしかし、そこで止まらない。すなわち、「「徳山の棒、臨済の喝」或いは「栢樹子」「麻三斤」等々の立場が、単なる「没論理」の立場である訳ではない。」として、西谷啓治「禅における安心の問題」『講座 禅』第七巻 筑摩書房)から、「禅があらゆる思想や思惟の立場を超絶しながら、しかもその超絶したところに大きな思想や思惟を換骨奪胎的に含んでいる。」云々の一節を引用し、そこで「論じられる様な、極めて高度な世界、即ち華厳に所謂「事事無礙法界」の開示がある」のだとされ(一三七ー八頁)、次いで、

 「明治四十年から大正五年迄の約十年間の漱石を禅とのかかわりから見るなら、そこには漱石に於ける禅の真理の発見、或いはそれ以上の、禅の体得と体現の過程とでも言うべき一つの飛躍が認められねばならないであろう。そしてその方向性を托されていたのが、大正二年の『行人』の長野一郎に於ける、

 「何うかして香厳になりたい」(「塵労」五十)

という言葉であったと考えられる。」(一三八頁)

とし、さらに『行人』から、上に言及した一郎の言葉とそれに続く一節を引用される。

「「神は自己だ」…「僕は絶対だ」…一度此境界に入れば天地も万有も、凡ての対象といふものが悉くなくなって、唯自己丈が存在する…。其時の自分は有とも無いとも片の付かないもの…即ち絶対だ…。其絶対を経験してゐる人が、俄然として半鐘の音を聞くとすると、其半鐘の音は即ち自分だ…。言葉を換へて同じ意味を表はすと、絶対即相対になる…。」(「塵労」四十四)

 「併し」と加藤氏は続ける。

 「『行人』の一郎の「心」に半鐘は鳴らず、…彼が半鐘を聞き得る道、即ち「絶対即相対」の「論理」、それを望見しつつそこに至り得ないのは、畢竟彼が近代の自我としての自己に「死」に切れないからに外ならない。とするなら『行人』に続く『こころ』の先生の「自殺」の意味は明らかであろう。漱石はそこで、禅家の「棒喝」や「麻三斤」等を「没論理的」とし「囈語」として棄却していた(嘗ての自己をも含めた)、その近代の知性を「死」にいたらしめていたのである。」(一四〇頁)

 加藤氏は、その漱石評論を次のように結論づけておられる。

 「『こころ』以後、『道草』『明暗』と展開の度を深めていった漱石の文学世界を禅とのかかわりという観点から見る時、そこに告げられた「吾ガ禅」の自覚の内容は、大拙の言に照らしても、現代禅の中核的課題を射抜いたものであったのである。」(一四二頁)

 「吾ガ禅」の語は、大正五年一○・一二作漢詩七言律の末尾に見られる。また「大拙の言」とは、秋月龍a宛書簡で鈴木大拙が、現代の禅に「悲」と「理論」とが欠けていると述べるものを指し、加藤氏もずっと主張し続けられたことである。

 加藤二郎氏の漱石評論を辿ってきて、私は、中学生の頃読んだ時に難しいと思い乍らそこにこそ作品を理解する上での重要な手がかりがあるのではないかと感じていた、その難解さの深奥に導入していただいたような喜びを感じた。五十一歳でのご逝去は確かに早逝だが、その漱石論は容易に人の追随を許さない堂々とした大家の所論であり、私が取り上げる以前にすでに少なからぬ知音を見出しているはずである。私は加藤氏のこの書物に出会ったことに深い感銘を覚える。

 なお、『漱石と漢詩』は、私がでしゃばる分野ではないが、漱石文学の原点に光を当てた秀作として、『漱石と禅』と同じくきわめて高い評価を受け続けるものと確信する。 二〇〇五・六・二一