久松先生のいわゆる

『維摩経』教乗公案

 

              常盤義伸

 

一。著作集第三巻の論文「禅‥近代文明における禅の意義」に次の箇所がある(二四六頁)。

 「禅 …の機縁は、日常の人事のあらゆる具体的なものであります。…『維摩経』、『金剛経』、『華厳経』、『法華経』等、仏教経典中の語句が、機縁になっている場合も、決して少なくないのであります。

 たとえば、『維摩経』の「本有円成、甚麼(なん)としてか、迷倒して衆生となる」とか、…『心経』の「無眼耳鼻舌身意」等のごとき、いわゆる教乗公案なるものであります。しかし、それらも、経典の語句そのものを尊重し、それを文字的に註解するためではなくして、随時随処に、禅の機縁とし、端的に、自家薬籠中のものとして、活用したのにほかならなかったのであります。…経典の語句も、禅では、経典を離れて経典の根源としての人心を直指し、見性成仏せしめる禅独自な、端的な契機として、取り扱われるに至ったのであります。」

  大谷大学東方仏教徒協会発行の英文誌 The Eastern Buddhist I-1, 1965 に載せられた、久松先生のこの論文の英訳( DeMartino氏と私との共訳)を作成した際には、例えば『維摩経』から「本有円成」云々の言葉を直接引用されたと考えて、これをそのまま引用文として英訳し、久松先生が参照されたはずの羅什の訳文にこの箇所を探す手続きを取ることを、当時第一次訳者の立場にあった私は怠っていた。最近私は、久松先生の論文ですでに英訳発表されたもののうち、自分が関わったものを中心に、いくつかの重要な作品を新たに校訂する作業を単独で開始して、引用された言葉を原典で確認する過程で、自分の過去の訳業のこのような不備を、痛烈に思い知った。この「『維摩経』の「本有円成」云々」とされる箇所は、実は羅什だけではなく他の漢訳者の『維摩経』訳文にも、見当たらないのである。それもそのはず、久松先生の日本語原文の、問題の箇所のポイントは、引用文と思われたものが経典の言葉そのものではなく、「 いわゆる教乗公案なるもの」、すなわち禅者の間で公案として取り組まれてきた表現であったことである。私は自分たちの英訳を、そのような理解のもとに訂正して、この難所を乗り切ったと考えている。しかしそれでも、この「本有円成」云々の言葉は、はたして『維摩経』の特定の箇所に基づく表現なのかどうか。その点を英訳者として、このさいはっきりと確かめておく必要があると考え、実際にこの経典に当ってみた。その結果を英文訳注に記すだけでなく、ここに紹介させていただく意義があると考える。

  私は先ず『維摩経』羅什訳仏国品第一(大正大蔵経巻十四)の次の箇所を確認した。

「仏、舎利弗に語る、我が仏国土は常に浄きこと此の若し。この下劣の人を度せんと欲するがための故に、是の衆悪の不浄土を示すのみ、…と。」(五三八下)

  久松先生の「引用文」は、内容的にはまさしくこの箇所に相当する。「本有円成、甚麼としてか迷倒して衆生となる」は、舎利弗の疑問に応える仏陀の応答を、人間の根源的な問いの形に戻したものである。そのことの意味を考えるために、前後の脈絡を考察してみたい。さいわいに一九九九年七月末、『維摩経』の梵本が初めて、大正大学の調査班によって中国西蔵自治区のラサ市内、ポタラ宮所蔵梵文写本のなかから発見され、二〇〇四年三月、そのローマ字転写をデルゲ版チベット語訳と漢訳三本と対照させた書物が大正大学出版局から発行された。早速購入しておいたこの梵本によって今度その第一章を精読し、おかげで『維摩経』の「教乗公案」の元となるこの経典の考え方を飛躍的に明瞭に理解できたと考えるので、まずその要点を以下に紹介する。

 

二。インド、ヴァイシャーリ郊外、アームラパーリーの森にブッダ・シャカムニ(シャーキャ族出身の聖者)が文殊、彌勒、観音など、自在に娑婆世界に姿を現してブッダの働きを助ける神通力をもつ超人的存在としての大菩薩たち、神々、出家者、在家者などとともに、止まっておられたころ、城下で、シャカムニと親しいヴィマラキールティという名の、神通力を発揮する在家菩薩が現実の不可思議な解脱の道の解明を展開するという、この大乗経典『ヴィマラキールティの教え』の序章で、ブッダ・シャカムニの出現されたこの世界を浄めるとはどういうことかというテーマを巡って、シャカムニを中心にして議論が展開する。

  ヴァイシャーリの町の豊かな商人の息子ラトナーカラ(「宝蔵」)が同じ部族の若者五百人と一緒に七つの宝石でできた日傘を持参してブッダに捧げると、それらの傘が一つの巨大な傘となって全世界をそのなかに収めてしまう。ブッダのそういう神通力の働きに驚嘆しながらラトナーカラは、シャカムニ・ブッダが出現されたこの人間世界をシャカムニと同じく自らブッダとなることを志すもの(菩薩)が、如何にして浄化することができるかを、ブッダに尋ねる。すなわち、菩薩は、自らブッダになるべく成熟するとともに、他者をも、自らブッダとなる道に歩み出すように成熟することの助けになることを志すから、「菩薩」であるわけである。ブッダはラトナーカラのこの問いを高く評価して、丁寧に説明する。

  世界を浄化するとは、ブッダの説明によれば、自他共にブッダとなるべく自らを成熟させることである。ところで、自ら  ブッダとなったシャカムニは、自らを成熟させたうえで人々を成熟させるべく力を尽くしていることになるが、そのシャカムニは、人々を成熟させることをどういうこととして理解したのか。『ヴィマラキールティの教え』は、その序章でシャカムニの考えを次の様なものとして紹介する。

  すなわち、一切のものは虚空に似て、何かとして捉えられるべき自性をもたず、人々を成熟させることを願うことも、成熟させることも、本来なく、寂滅である。人々を何ものかとして捉えることはできない。しかし一切が寂滅であることを悟らずに、捉えられるものがあるとして人々が妄想するかぎりは、この妄想を除くことがすべてのものの寂滅の実相に適うことである。人々を成熟させることを願う菩薩の誓願は、それが本来無願であることを承知した上で願われるかぎりにおいて、世界を浄化する働きを建立する場所となる。具体的には、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧、のどれ一つでもが寂滅の中から行なわれる世界は、菩薩が建立するブッダの世界、浄土である。あるいは、慈悲喜捨の四無量心、人々を引きつける四つの接し方(布施すなわち無条件に与えること、優しい言葉、利益を提供すること、目的を共有すること)、八正道、すべての悪趣を根絶することに努めること、自分は戒行を守り他者の落ち度を責めないこと、他者の繁栄を嫉妬しないこと、悪意を抱かないこと、求法の集まりを裂かないこと、真理に適う発言をすること、正見を具えること、など、すべての人は、自他の自心を浄めることに努めるべきである。こうして、菩薩が自心を浄めることが、すなわち世界を浄めることになるのだとされる。ここでは「浄土」とは菩薩が「土を浄める」働きのことと考えられている。しかしそれは、あくまで除かれるべき妄想が本来ないことを会得するための方便としてである。妄想を除くと云っても、それは本来妄想されたものもなく妄想することもないと悟ることのほかにはない。本来寂滅であることが真の清浄である。ここに大乗の修行の意味がある。

  ラトナーカラの問いに応えて大乗の菩薩の教えを説くブッダ・シャカムニは、この教えを人々に徹底させる為に、聴衆のなかの出家弟子の一人、シャーリプトラの心に起きた疑問を取り上げる。自心を浄めることが世界の浄化になるのであれば、大聖・世尊シャカムニ・ブッダは、菩薩として修行中に心を十分に浄められなかったからこそこの世界がこのように濁悪極まりないことになっているのではないか、と。ところで、「浄土」とか「仏土」とかいう言葉は、ふつう大乗経典では、このシャカムニ・ブッダの世界以外のどこかに存在すると考えられる理想的な、他のブッダの清浄な世界として理解されている。シャカムニ・ブッダのこの娑婆世界(忍苦の人間世界)を理想の世界と考えることはない。大乗経典の一般的なこの理解は声聞弟子シャーリプトラのこの疑問を支持することになりはしないか。以下に見られるブッダの答えは、明らかにシャーリプトラの目線に立って、これを批判するものとなっている。

  すなわちブッダは、シャーリプトラの心の内に生じたこの疑問を察知して云う、日月の光が清浄でないから生盲の人にその光が見えないのだろうか、と。もちろんシャーリプトラはこれを否定していう、日月の光が見えないのは生盲の人に見えない原因があるのであって日月の責任ではない、と。ブッダはいう、同様に、人々の無智のせいで、ブッダがその世界の優れた様子を顕し出しているにも拘らず、人々はそれを見ないのであって、人々がこれを見ないことはブッダの責任ではない。ブッダが示すこの世界は清浄そのものであるのに、君たちがそれを見ないのだ、と。議論の焦点をさらに浮き上がらせるために一人のブラフマー神がシャーリプトラに云う、シャカムニ・ブッダのこの娑婆世界の清浄さは自在天の神々の宮殿の荘厳さに劣らない見事なものだ、と。シャーリプトラは云う、我々はこの大地が上下に勾配を示し、いばら、山頂、深い割れ目、そこを満たす汚水の色を見ます、と。ブラフマー神は云う、君の見る大地の上下の傾斜などは、ブッダの智慧を受け入れる心が浄化されないままにブッダの世界をそのように見るからだ。菩薩はすべての人々に平等な心をもち、ブッダの智慧を受け入れる心が浄化されていて、このブッダの世界を清浄なものと見るのだ、と。

  経典の編集者はこれらの議論が議論に終始することを避けて、劇的な展開を計る。すなわち、ブッダは足指でもって三千大千世界をぐいっと押し下げる。途端に全世界は無数の宝石をちりばめられた姿を示す。会衆はすべて、自分が宝石の蓮華に坐していることを知り、希有の思いに圧倒される。そこでブッダがシャーリプトラに云われた、「ブッダの世界が優れた特質でもって荘厳されているのを君は見ましたね。」シャーリプトラ、「見聞したことのないこの世界の荘厳な姿を私は見ています。」ブッダ、「私のこの世界は常にこうです。如来がこうして過失の多い世界を顕し出すのは、外でもない、機根の劣った一般の人々を成熟させるためです。たとえば、天地の子である神々の食物は一つの鉢に入っていながら、各自の積み上げて来た功徳の違いによって、飲む食物が決まってきます。同様に人間は、各自の心の浄化に応じて諸仏の世界の荘厳をみるのです。」

  最初の質問者ラトナーカラと五百人の若者達は、[世界の浄化が自心の浄化に応じ、それに]従うのだという確信を得たとされる。ブッダが神通力を収められると、この世界は荘厳を離れた元の姿に戻って、出家弟子達は真理を見る目を浄められ、会衆はすべて、ブッダの目覚められた真理に深い信頼を抱き、すべてのものの無常を会得し、無上の悟りを得たいという願いを興した、と。

 

三。ブッダの言葉で注意を引くのは、次の点である。すなわち、ブッダが常に顕しだしている人間世界の実相を人間が見ることが出来ずに、これを過失の多い濁悪の世界と見るのは、無智の為だとする一方で、実は如来がこの過失の多い世界を顕し出しているのだ、それは人々を成熟させる為なのだ、と、一見矛盾した発言をしていることである。過失の多いこの人間世界は、ブッダにおいては本来過失を離れているからこそ、「ブッダの世界」「仏土」と云われるのであろう。「ブッダの世界」が一般の人間にとって単なる「娑婆世界」となっているのはなぜか。これが『維摩経』の教乗公案とされるものの原型のようである。

  久松先生が『維摩経』の教乗公案とされる表現の出典を探るなかで私は、柳田聖山氏、前田直美さん(禅文化研究所資料室)、廣田宗玄氏(妙心寺派教学研究所)のお三方からご教示を得、次の結論に達した。

  大徳寺派の一休宗純(一三九四ー一四八一)は自作詩集『狂雲集』第五五一の見いだしで、妙心寺開山、関山慧玄(一二七七ー一三六〇)の語を挙げて評して云う、

「関山和尚垂示に曰く、本有円成仏、為甚(なんとしてか)迷倒の衆生と成る、と。関山の仏法、この垂示以後爛却し了る也」(『中世禅家の思想』岩波書店、三六四頁 

 関山はかれがこの公案を用いてから全くだめになった、と一休は酷評するのである。はたしてそうか、どうか。この見出しの後の一休の詩を考えることは省略する。とにかく、久松先生が『維摩経』の教乗公案とされるものが関山慧玄の用いた公案であったことは、これによって明らかである。そしてそこでは「本有円成仏」とされていたことを知った。没後歴代の天皇から関山に贈られた計六つの国師号のうち最初が後奈良帝(一五二六ー五七)からの「本有円成国師」である(荻須純道・竹貫元勝編著『妙心寺』一九七七)。

 次に、妙心寺が伝える公案集『宗門葛藤集』(初版発行、一六八九年。一九八二年発行)第八版全二八二則のうち第一八三則は、

「維摩経に云う、本有円成仏、為甚(なんとしてか)還って迷倒して衆生と作(な)る。」

とする。これが、関山慧玄が用いたこの則を『維摩経』に由来するとする最初の史料のようである。第八版としていちいちの則に訳注を付して発行された梶谷宗忍師は先行の資料に基づいて、「この語は『維摩経』にはみえない。『円覚経』の間違いであろう。」、「この則は『円覚経、金剛蔵菩薩章』にみえる」とされる(三八九頁)。『円覚経』では質問者、金剛蔵菩薩の次の問いがある。

  「世尊、若し諸衆生が本来成仏ならば、何故復た、一切の無明有りや。若し諸無明、衆生に本有ならば、何の因縁の故に如来復た、本来成仏と説くや。」(大正蔵巻一七、九一五中)

 しかし此の後に続く世尊の返事には、『維摩経』に見られる様な、それを問いの形に変えて『葛藤集』第百八十三則が打ち出されるもとになる表現が全くない。仮定に基づく質問者の単なる問いでは公案にならない。

 『円覚経』は、その「金剛蔵菩薩章」という題名が『仏華厳経』の十地品の中心人物の名からとられたことが一目瞭然であるように、いくつかの重要な大乗経典の内容を要約して中国唐代に編集された経典と考えられる。『維摩経』からの影響もあって不思議ではない。しかし『宗門葛藤集』がその則の典拠を『維摩経』とすることには、上に考察したように、十分な根據がある。他に裏付ける資料はないが、私は『宗門葛藤集』のこの理解が関山自身に遡るものと考える。

 一休と同時代の、妙心寺第六世住持、雪江宗深(一四〇八ー八六)が残した関山伝を基にして後継者、東陽英潮(一四二八ー一五〇四)が編集した『正法山六祖伝』(寛永十七年、一六四〇)の第二世授翁宗弼の章は、関山が本則を用いて弟子の指導に当たったことを記す。すなわち、宗弼(そうひつ)は、

「一日、本有円成話において豁然大悟す。投機頌を呈す。山、句句において一拶再拶を与う。答話、響きの応ずるが如し。山、呵々大笑す。便ち筆を援けて大いに紙尾に書して曰く、上人今日大悟大徹せり、と。」(原漢文)

 また、妙心寺所蔵の「関山叟恵玄為宗弼上人書」は、八十歳の関山が六十一歳の宗弼に与えた印可状とされるものである。

  「宗弼上人、本有円成の話に参得し了って、投機の頌を呈して曰く、此の心一たび了して嘗て失わず。人天を利益すること未来を尽す。仏祖の深恩は報謝し難し。何ぞ馬腹と驢胎とに居らんや、と。余問うて曰く、此の心、何処に在りや、と。答えて云う、虚空を逼塞す、と。曰く、未審、何を以て人天を利益するや、と。答えて云う、行きては到る水窮まる処、坐しては看る雲起こる時、と。曰く、仏祖の深恩如何にして報ずるや、と。答えて云う、頭に天を戴き脚もて地を踏む、と。曰く、馬腹驢胎に何としてか入らざる、と。弼、便ち礼すること三拝す。余、呵々笑って曰く、上人、今日大徹大悟せり、と。

 延文元仲春日

関山叟恵玄、宗弼上人の為に書す」(原漢文。「正法山誌」)

 延文元年(一三五六)は、三月二十八日に文和五年から改元されたことを考えると、仲春(二月)の日はありえず、「晩春日」を数日余すのみである。加藤正俊氏(花園大学名誉教授)は、この年記の問題点に加えて上に引いた『正法山六祖伝』の授翁章と内容的によく呼応する関係を考慮して、この印可状を関山の直筆ではなく後世の作とみておられる(「関山慧玄伝の史料批判」禅文化研究所紀要第四巻、一九七二年)。文書の作成状況について同じ疑問は残るが、たといこれが後世の作としても、内容的に『正法山六祖伝』と響きあうことは重要である。私はこの印可状の文言に初めて接したとき、一瞬息をのんだ。そこに記された問答が若き日に妙心寺僧堂で参禅得悟された久松先生の心に深い余韻を残したであろうことはまちがいない、と確信したからである。授翁宗弼 が言及する頌「行到水窮処 坐看雲起時」を久松先生は、京都大学の仏教学講義の一つで、ある年度(一九四六か四七)の初めに、中国唐代の詩人王維(六九九ー七六一)の作品「終南別業」の一部(八行のうち第五・六行)として板書され、そこに仏教者の生き様の優れた表現がみられると説明されたことを記憶している。また、岐阜のお宅で亡くなられたあと、枕元の屏風に横書きにされた先生の、水窮まり雲起こる姿そのままの筆跡が見られたことでこの頌は、私には格別印象深い作品である(著作集第七巻『任運集』作品写真第六九)。

 「行きては到る水窮まる処、坐しては看る雲起る時」は、維摩経的言表を借りて提示せられた禅者の問い、「本有円成、甚麼としてか迷倒して衆生となる」を、覚者の慈悲の発動と受け止める参禅者の詩的応対と見ることが出来るとすれば、久松先生が基本的公案とともに打ち出された「人類の誓い」、そしてFAS構想、の発祥の源も、このあたりに遡るのではないかと、私は妄想を逞しくしている。

              二〇〇五年六月十五日