平常心是道


 
                                   大薮 利男


 趙州が師の南泉に「如何なるか是れ道」と問うたとき、南泉は「平常心是れ道」と答えたと言います(無門関 第十九則)。この話は禅ではつとに有名でありますが、しかし私はこの話の意味が長い間さっぱりわかりませんでした。「平常心」といわれても、平常心そのもの、平常な心とは一体なにかがわからなかったのです。
 時々に政治家やスポーツの選手が発言しているような、何時もと同じふだんの心とか、少しも外部のものに動かされないへいぜいなる心、というような平板な言葉として南泉が「平常心是道」と言ったとは到底思えなかったからです。
 久松先生は「平常心」について、こう言われています。『本当に平常な心というものはどういうものでありましょうか。古今を絶し、東西を絶するものでなければ本当の平常心ということではない。輪廻している心は、それは平常心とはいえない。むしろそれは無常といわなければならないわけでありまして、平常心というものは何処ででも、何処にでもある。一切時、一切処にある心であってこそ平常心である。何処にでも欠くる処はない、何処でも一杯である。全身全霊に一杯であるというのでなければ、平常心とはいえないわけであります。そういう平常心であってこそ、初めて事なきを得るわけで、生死に直面し、あるいは善悪に直面し、しかも迷わない』(臨済録抄綱)と。
 南泉の「平常心是道」という言葉は、実は南泉の師匠、馬祖道一が言ったものだといわれます。馬祖は「平常心是道」についてこう言います。『道はことさら修めるものではない。ただ汚してはならないだけだ。何を汚れというのか。生死の心があって、何かを行い、何かを行おうとするならば、それはみな汚れである。ずばりその道に入りたいなら、あたり前の心(平常心)が道なのだ(是道)』『あたり前の心は無造作であり、善悪がなく、より好みなく、時間とか永遠とか、凡夫とか聖者とかいうものがない』『今現に行住坐臥し、相手に応じて行動することがすべて道に他ならない』(馬祖の語録・入矢義高編)といっています。馬祖には、また有名な言葉として「即心是仏」があります。馬祖のいう仏は、どこか遠くにある崇高な仏をいうのでも、難解な言葉で理屈付けたような、もったいぶった仏をいうのではないのです。ずばり「あんたの心そのものが仏だ」と単純明快にいうのです。

 私自身のことを振り返りますれば、私は長い間、そこはかとなく迫るむなしさと何処となく落ち着けない不安の日常を生きていました。そこからの脱出を願って何かを求め続けていました。それは長い長い無駄骨の年月でありましたが、求めに求めても満たされることのない挫折と絶望のなかで、ある時、ふと自分自身の脚下にあるもの、そのものに気づきました。これほどまでに私を駆りたて、求めに求めさせたそのもの、それは一体何なのか…、と。求めざるを得ないそのものが、実は私が求めようとしていた当体であったという気づきのなかで、深い喜びと安堵を得たのでありました。
 私は、今はこう思っています。平常心というのも、そのままの私の当たり前な心であって、何か将来に達すべき理想のものでも、すべての人が本来そうであらねばならないイデアのようなものをいうのでもない。現に何時でも誰でもが、もう既にそうである個々の現実における日常底の事実、個々人それぞれに常々に働く生き生きとした素直なあたり前な心、求めるなといわれても求めざるをえないその当体、そのものを汚染することなく誠実に忠実に生きること、そのことがまさに「平常心是道」なのだと思います。

 私たち「いのち」は、世界の内の多くのものとのかかわりの中に置かれ、「共に」あるものとして関係性(縁起)の中で生かされ、生きています。私たちは普通、自分が直接にあるいは集団全体の動向を経由して「いのち」という力の意志によって動かされていることを忘れて生きています。その事実をまた見ようとはしません。一人ひとりが個として生きるということは、自分の主体的な意志によって行動し生きているものなのだと、なんの疑いもなく思いこんでいます。ここに人間の無明があるのです。 私たちはその都度その都度、その場その場、一回限りの今を生きています。その今という現場では共にある関係性の中で、私の使命を既に知っているのです。現場情況に応じて、私のとるべき役割分担を誰もが実は直観的にわかって生かされていると言えましょう。
 久松先生はそこを『一切時、一切処にある心であり、何処にでも欠くる処がない、何処でも一杯である。全身全霊に一杯である』と言われたのでありましょう。
 私たちの頭の構造は、直観的に知ったものを「私が」という自我のフィルターをかけるような仕組みになって生きています。ここに「生死心」という迷いが生じ汚染がはじまるのです。これはしかし「いのち」が与えた構造であって、この小さな私の対応を超えていることであります。このことは認め、受け入れざるを得ないのです。
 そこで、私に出来得ることは何か。
 まず、この「いのち」の構造をはっきりと自覚すること。その上で、一回限りの今という私の現場で、「まー」とか「しかし」と言う前に、気がつくことは直ぐにやり、咎めることはやらない、という単純な一つひとつの行動の中に精一杯なりきり澄浄していくこと。それでしかないのだと思うのです。そして、それでいいのだと思うのです。そこでは、もう赦されているのです。こんなところに後悔のない生き方があるのだと私は思っています。そういう今、今を生きていきたいものだと切に願っています。