『経録抄』編集の頃(二)
―北原隆太郎さんとの交信より―
川﨑 幸夫
書簡(一九六八・一一・九)
拝啓
玉葉有難く拝見しました。『壇経』五巻、『臨済』二巻のテープが足立さんの所から出て来ましたか。これだけ揃えばもう全部かと存じ、ほっとしました。仰せのようにお願いできれば本当に助かります。『壇経』のその分、京都の学生諸君に筆録をお願いできれば安心です。京都大学の名はハイデルベルヒでも轟いていました。(ネッカー河畔の東山のような丘陵に「哲学者の道」というのもあり、京都と少し似ていました。)大学前の本屋には独訳『碧巖録』第二巻が三四冊も並んでいました。今に『久松真一著作集』をあそこに並べたいものです。尚、久松先生の「悟り」論の抜粋を含む仏訳『禅の世界』もソルボンヌ大学に近いサン・ミシェル通りの本屋にありました。普通の街の本屋では「禅」といってもあまり知らないようでしたが、さすがに大学の近くの本屋なら直ぐ分りました。ローマのスペイン広場近くの本屋でもイタリア語禅籍がヨガの棚の上に並んでいました。何処の空港でも新書版『毛沢東語録』は各国語版で売っていましたが、禅の本は未だアメリカ程には普及していないようで、ＺＥＮという言葉はむしろＺＥＮＧＡＫＵＲＥＮにお株を取られたのではないかとさえ思われる位ですから、これからはＦＡＳで行くに限ります。摂心SESSHINとか経行KINHINとかいう言葉はアメリカでは英語化したようですが、西欧ではまだまだでしょう。但し『壇経』などは既に英訳でも三種類位は出て居りますから、禅籍としては知られている方でしょう。大事を期さねばと思います。鈴木先生の著書に続いて、きっと今に久松先生のものが西欧にも進出するでしょう。
カメラ、トランジスターラジオ、オートバイ等の類の進出はめざましいもので、フランクフルトでさえ日本のカメラがショウインドウに圧倒的に並べられていましたが、そういうものばかりではなくて、こういう根源的な深い目覚めの解明があったか！と瞠目されるようになることが予感されます。たった二十時間(時差の関係で十二時間に時が縮まります。大分、時を稼ぎましたが、帰途は時が延びて差引ゼロになりました)でアテーナイの曽てソクラテスも歩んだ大地を踏んで驚きました。ヨーロッパも何と近くなったものでしょう。唐、天竺もひと跨ぎで、遥かなシルクロードの頃を偲べば感無量です。アラビアン・ナイトの魔法の絨毯に乗ったような思いでした。西欧の各都市に日本人がうようよし、ロンドン、パリは世界の人種博覧会のように、しろ、黒、黄が混然としています。世界が(Ａ)の方向に急速に進んでいることを如実に実感しました。西欧の中では国境というものが解消しつつある位に、互いに交流し合っています。ドイツ・オーストリー間に有料道路の料金徴集所のようなのがありましたが、手を振って、笑ってフリーパスでした。チロルからスイスへはいつの間にか入っていました。百年前の日本の各藩ほどの隔てもすでに無くなっています。ヴァチカンの国境線は道路に白線を引いただけで出入自在、ソ連の観光団もアメリカのそれも、韓国人の群も日本の司祭さん達もみんな大広場に入り交って、ビルの高窓からのローマ法皇の説法―ラウドスピーカーで伝えられるイタリア語―を聴取しました。久松先生の提綱もあのように世界人類に聞かせたいものだなあと痛感しました。
それで『録抄』全体の照合点検には全力を尽くします。西欧旅行の回想も一旦早く切り上げて、東洋の方へ切り替えねばと日々思いつつ、未だ旅行の後始末に追われ、今月中のスケジュールも諸会合等でもう一杯になってしまいました。東洋というよりも世界人類のために大事な仕事ですから、できるだけ速かに著作集の方へスイッチを切り替えます。理想社の佐々木社長から、編集は任せるから繁を削り、重複を避けて、どうしても千枚以内に収めてくれと念を押されているので、千六百枚見込みの第六巻はどういうことになるか案ぜられますが、少なくとも『臨済』は洩れなく収めたいものです。『壇経』は講義ですが、こちらは最新の提綱で遥かに冴えていますし、一層重要逸すべからざるものです。何分、単身、徒手空拳にしてテープ筆録までは如何ともし難いので、川崎さんもさぞ御繁忙中のことと存じ、申し訳ないことですが、この前お願いした分、足立筆録からの原稿化の件、多量にてお気の毒ですが、何とぞよろしくお願い申し上げます。
川崎さんの御筆録は最も正確にて、表記法上の規約に適っている点も小生の以て範とすべきところ、全面的に御信頼しています。但し元のノートそのものに聞き違え、或いは脱落齟齬もあり得ますから、原典やこちらの速記ノート、或いはテープの来ているものがあればそれを聴取して、厳密に照合点検いたします。『臨済』の今回出て来た二巻も何とか京都の信頼できる方に、表記法もよく理解して頂いて御依頼の程、切に懇願申し上げます。皆さんそれぞれ大変でしょうけれど。こちらも大なる『録抄』全体の正確にして且つ統一的なる校訂調整に全努力を傾注いたします故、何とぞおよろしく、小生の力及ばざるところに御支援のほど、念じ上げます。第一巻が一月からとなり、若干の時日の余裕は未だあるようですが、第六巻は枚数計算も原稿化してみないことにはコンピューターでも算出できず、やっぱり他の巻の一倍半の分量になりはしないかと、そこの処が非常に懸念されますので、大兄をはじめ皆様の御無理にならない程度で、できた分から逐次お送り頂ければ有難く存じます。世相混乱の折柄、使命の重大さは私も痛感しています。西欧で最も深く感銘したのは結局、十字架上のイエスでした。
ＦＡＳ
北原隆太郎拝
書簡(一一・一一)
拝復
布施局十一月九日消印のお葉書、有難く拝見しました。星雅江さんから八月上旬に藤吉さんに渡された『壇経』(七)(機縁第七末尾より頓漸第八・志誠の項に入る、昭和三八年一月八日の講義)のテープ一巻は星さんの該当巻の原稿三十三枚とともに八月十五日に藤吉さんより小包で拝受、すでに原稿化処理済ですから御放念下さい。実は星さんの当該原稿が引用原典が漢文体であるし、内容も相当簡略化してあるので、直ちに荻原安子女史に廻して、一往、何でも先生が話された通りに忠実に復元するように念を押して、やり直して貰ったところ四十七枚にもなりました。仮名の多い今回の表記法の故もありましょうし、あまり冗長なところは多少は削る必要もありましょうが、それにしても筆記者によって枚数の開きがあまりに大きすぎて、考えさせられます。今、特にその点でやり直しの必要を感じているのは『臨済』の(八)(三八年四月六日)、(十)(同九月三日)、(十一)(九月五日)などの原稿ですが、この内、特に原典引用文が漢文体で且つ内容簡略なること、さきの『壇経』(七)と同様なのは(十)で、これは全面的にやり直さねばなりません。しかしこれはこちらで何とか処理致しましょう。
十一月七日消印のお葉書にありました新出土品『壇経』五巻及び『臨済』二巻で双方とも全部揃うことになります。それと大兄にお願い申し上げました『臨済』(三)(四)(五)(六)(七)とで全部になります。
『十牛図』『壇経』『臨済』、それら以外の原稿及び『経録抄』全体の目録は藤吉さん出立の際、羽田で受けとり、こちらに保管しています。非常時に持出せるように旅行鞄一杯につめて居りますが、これだけで既に相当の分量なので、『経録抄』が果して一巻に収まるかどうかは依然悩みの種です。『起信』『維摩』も新表記法で完了していますが、この夏はそれだけで精一杯でした。この巻は未だ相当時間もかかり、やはり他の巻の一倍半にはなりそうで、その辺もどう処理するか、いずれ藤吉さんも年末には帰られましょうが、北山さんや東さんにお会いの節はこの状況をお話しおき下さい。ともあれ『壇』『臨』いずれも先ず原稿化を達成しましょう。
去る九月二日に北山さんからテープ十七本が小包で送られて来ていますが、この内十六本まではすでに原稿化が一往済んでいるものです。厳密な点検はまだですが。一本だけ『臨済』の(三)(四)が両面にあるのがありますが、もし御入用でしたらお送りします。尤もこの『臨』(三)(四)は足立筆録ノートのＱ氏＊原稿をお送り頂ければテープとの照合は小生が致しましょう。『壇』九回分及び『臨』二十二回分計三十一回分に亘りテープの表裏の継ぎ目の空白を埋めるという仕事もありますが、これも殆んど小生の直接聴法ノートがありますから、それで何とか工夫してみます。
『壇』の(九)が昭和三十八年三月三日にあったことは初耳でした。「般若第二」が第二回目にあったのではないかと想定していましたが、おそらくその章は飛ばされ、省略して講ぜられたものでしょうね。『壇』の講義は毎月一回ずつ行われているようですから、全部で十回になる筈という小生の推定は謬りで、九回で完結なのでしょう。阿部さんか誰か研究会に出席された方がノートでもとって居られたとすると確かめられることと存じますが、この九回目の講義の「場所」が判明したらお教え下さい。さきの七日消印お葉書に『臨』の第二〇回(昭三九・一二・二一)、第二一回(同一二・二三)とありましたが、これは第二一回と第二二回とです。それで『臨』は完結です。
先便に記しましたように、『臨』(三)～(七)の五本分のＱ氏原稿を待望致しますが、大兄お一人であまりに御負担がかかりすぎるようでしたら、(三)(Ｓ三七・一二・一八)、(四)(同一二・二○)のテープをお送りして、京都の学生諸君にお願いする分に入れて頂きましょうか。こちらも女子はまったく頼みにならないのです。誤記もひどすぎて、結局、やり直さざるを得なくなって了い、二重の手間ですが、とにかく今、すでに原稿化している分のやり直しはこれからやります。学生諸君も今の人は漢字を知らないので改訂するのに大変でしょうけれども、男子はまずましです。改訂の煩は覚悟しています。ともあれ一往の原稿化―その際、原典を漢文体にせず、できるだけ新表記法の規約を遵守して頂くように周知させて頂いて―を、ぜひとも新出土品『壇経』五巻、『臨済』二巻とも京都の学生諸君にお願いして、それをまとめたく存じます。今手もとにある旅行鞄一杯の原稿のやり直しだけで、それらが出来てくるまでかかりそうなので、(平常道場もおそらく弱体で、学生諸君といってもそう人手がある訳ではなかろうと想像され、申し訳ないことですが、)(禅語が出てくるので、理想社で投げ出したように普通の人では仲々困難で、久松先生なり、禅なりに或る程度なじんだ人でないと不可能に近いですが、阪神方面には、或いは奈良方面などには誰か無きものか、或いは、新潟へ一部送るか、学生諸君も大変ですが、社会人となると皆ますます繁忙を極めているでしょうし…)困ったことですけれども北山さんや東さんにもお力添え頂いて、何とか学生諸君にお願いできたらと思います。学生諸君といっても、修士論文、卒業論文、或いは試験などが近づいてきてお気の毒ですが、筆録が非常に勉強にもなるような御方があればと思います。第六巻の枚数超過の問題もあり、とにかく『臨済録』の完成を優先にして、場合によっては『壇経』は補遺の追巻送りということも考えられますが、どんなものでしょう。とにかく『臨済』の方は「欠少せず」、分割せず、完璧を期したく念願します。大兄もさぞ御煩忙の御事と存じ、恐縮至極ですが、何とぞよろしくお願い申し上げます。聴法底即筆録底即活臨済のＦＡＳとして、抱石底の一頓棒を直きに接住して一送に送倒しましょうか。が、打爺の一拳は先ず、刊行後にても遅からじ。否、即今便ち喫せよと一字一句に打爺しつつ、出発進行致しましょう。
余談ですが、敦煌出土品の『壇経』は、スタインの略取し去ったものは大英博物館に、ペリオの持ち去ったものはパリの国立博物館に陳列されていたようです。大英博物館ではロセッタ・ストーンとミイラなど、エジプトだけ主として見ましたが、大変なコレクションです。恐らく海賊行為によって世界中から蒐集した珍宝で一杯です。日本の切手だけでも抽斗が十くらいありました。
藤吉さんと一緒に見たコペンハーゲンの博物館などでもエジプト・ギリシアから中世の遺物が豊富でした。ヴァチカンの美術館もギリシア・エトルリアなど網羅していました。何処の美術館も戦争画と宗教画で一杯です。西欧の歴史の血腥さを痛感しました。人類和線を結ぶべく、宇治出土品『壇経』に取掛りましょうか。
＊Ｑ氏とは筆者川﨑の雅号である。
賀状(一九六九、元旦)の余白に
『臨済録抄綱』、御多繁中、御苦労様です。「内容見本」その他、いろいろと恐縮に存じます。龍となって天にも上り、蛇となって叢にも入り、佛界にも、魔界にも出入して、念念に、ＦＡＳを行じ、「人類の誓」を活きたく切願しています。猛鳴*ジージー昼夜を分たず、「キタ腹」イタイ・イタイ・イタイと業苦の相、リアルに現前するも、色即是空・空即是色、本来無相なるが故か。森羅万象の主として御自愛念じ上げます。
*「猛鳴」とは北原さんが軍隊で散々殴打されたことが原因となって、生涯苦しめられた激烈な耳鳴のことである。
書簡(一九六九・三・二)
(前半省略)
寒中、猛耳鳴に消耗致し、慢性腎炎のようで万事に渋滞、北山さんより御慫慂の西欧紀行も二月中あれこれ苦心しましたがまとめられず、諸事輻輳のうちにすでに三月の声を聞き、『経録抄』に専念せねばと期しています。昨年末柳川市の父の生家保存問題が起り、そのための募金運動とか展覧会とかの渦に捲きこまれて疲困しました。この十一月初めに記念館(？)開館式予定ということで、社会のペースに目が廻りそうです。『壇経』はお陰様で一往、原稿は揃いましたが、表記法が各人各様でまちまちだし、それを統一して、且つ正確を期するには相当、時日を要しそうです。何とかがんばります。大兄も御研究も大学紛争の渦や入試等々で妨げられて、さぞ御大変とお察し申し上げます。何卒よろしくお願い申し上げます。余寒厳しき折柄、御自愛のほど念じ上げます。ＦＡＳ
書簡(同年三・一〇)
拝復
『臨済録抄綱』Ⅴ及びⅩⅤⅢの両原稿の御速達、昨八日深更二時付玉翰とともに、早くも本日有難く拝受致し、お陰様で小生ノートとの照合を了えることができました。小生ノートには自信がありましたが、省略、脱落、自ら判読困難等のクレバス箇所も多いこと判明、やはりテープに拠る方が確実です。入試や大学紛争にて御多繁中、まことに恐縮、深謝申し上げます。全部が川﨑さんのそれのようなほとんど完璧に近い原稿だとまことに助かります。幸い『臨済』の方は根本女史らのも良くできていますし、内容もピチピチして息もつかせず、お陰様で、この分ならとほっとしています。『壇経』の方はなかなかそうも行かず、これから照合やり直し、清書し直しを要するものも半ばありそうで、長嘆息です。女性はつねに家事等に追われて博読の暇無き故かと、feministicに一面に同情しつつも、女性の手になる生原稿の反社会通念的独創性(普遍妥当性欠如)には泣かされています。それで足立ノートからの復元にはさぞ苦心惨憺せられたことと、つくづくお察し申し上げます。しかし貴稿の『臨済』Ⅴでは僅かに左記のような瑕瑾を見出しうるのみで、実によく洗練されています。
(Ａ)(１) 大燈国師は「大燈国裡に…」云々のところわざわざ『大燈仮名法語』まで原典に当られ、恐縮でした。傍線はおそらく言い間違えか、ここは大燈国師とは無関係で、「大唐国裡に…」が正しいでしょう。『碧巌集』第十一「黄檗？酒糟漢」参照―この話頭は臨済禅の一公案としても、また道元の『正法眼蔵』の中でもよく括ぜられる言詮で、恰も抱老が「森羅万象の主」と唯我独尊底(独脱無依底)を強調されるに同じか。
(２)「摂化」とあるは通常、「接化」とします。(＝「接得」etc)
(３)「雲を見て飛ぶ」は「雲を負んで蜚ぶ」です。「蜚」という漢字は難しいので「飛」にしてもよいでしょう。意味は同じですから(禅林句集参照)。尤も、漢字は面白いもので、「追い出す」よりも「?い出す」の方が感じは出ますね。ゲバ棒アレルギーの小生も、黄檗の棒頭はさすがに小キビよく、抱老が黄檗底に共感して語られるお気持も察せられます。破夏の臨済は恰も活公一が別時学道中に姿を現した感じ。
(４)「形見にもってけ」との形見はここはやはり「如意」でしょう。気付いたのはその位なものです。
(Ｂ)浜谷さんのは逐語的ですが、阿部さんの眼も通っているし、なかなか良く出来ている方です。
(１)「山は在り…」は「山は是れ山、水は是れ水」とすべく
(２)「心生ずれば心の性起」の傍線は「種々の法生じ」です。浜谷さんのでは○印や？印の無いところにむしろ若干誤記がありましたが、表記法も規約通りで助かります。なぜ各頁に三行ずつ空白を開けられたかと不審に思いましたが、丁度テープ切れ目のところで三行アキにぶつかり、こちらのノートでうまく埋め、「ハハァ、このためか」と思い当たりました。もっとも各頁に三行アケの要はなく、テープ切れ目の三四行アキで十分です。四料簡(揀でもよきも、抱石慣用語彙では簡―因みに六祖慧能は鈴木先生でも慧ですが、久松語法では恵能にします。達磨も達摩に。)の一、ⅩⅤⅢはどういうわけか、これで四種類も重複しました。さきにすでに足立本(草稿)、下村本、川﨑本があり、Ｑ本をば標準とします。下村本の絵のように丹念な書体のも論理的に明快に整理されていて面白いですが。総じてテープ原稿にこのような整理型(『五位』の辻村本、『壇経』の石井本u.s.w)と逐話再現型(今井本、根本本u.s.w)と両種あり、『壇』『臨』はむしろ後者に近く統一する方針にて、―既存原稿もそれが大部分ですし―Ｑ本が丁度適切な中道としてほどよく申し分なき目盛りになります。(因みに玉井本に「Ａは是れＢ」を「Ａ・Ｂ」とし、「心」を「必」と記しているのは現代中国文の表記法に準じたものか。)
言葉の反復はやはり提綱の如実が窺われて面白いこと、貴兄と小生も同意見です。ただし調子が出て先生が早口になり、あるいは話の継ぎ穂としてあまりに同語反復が多くなって煩雑化したところは多少簡明に削って論理の筋を通しましょう。先生の言い間違えは訂正してよいでしょう。『録抄』全体を通観して、同一内容の反復が非常に多いことは痛感します。例えば、演若達多とか、転識得智とか。『盤珪語録』に「不生の仏心ひとつ」を繰り返し捲き返して説くようなもので、いつも初音の心地で聞くものとしてはなるべく、重複箇所もそのまま収めたいものです。スペース過大超過は多少懸念しますが、この分なら尠なくも『臨済』はそう嵩ばらぬかも知れません。お送りしたテープはどうぞそのままに。御返送に及びません。Ⅳのテープはテープ函の表記によると、Ⅴと一緒にある筈ですが、試みにⅤの裏面でもおかけ下さい。頓に現前するかも知れません。Ⅲ、ⅩⅩⅠはテープがなければそのままお送り頂いて結構です。ⅩⅩⅡ(最終巻、寔情大難)はテープも足立本ノートも無ければ、小生ノートから作りますが。それから「慣れない禅語」の「錆」「銹」は御懸念なく。そのままブランクで明けて下さっても、ノートで何とか分りましょう。錆落しが研ぎ師の任務です。一見便見でしょう。といっても、素読文など原典に当らねば正確は期しえず、Ｑ本ほどに正鵠を射て居られるのは本当に有難き極みです。大部分の原典対校を欠くので不安です。しかし厳密にやります。専門家に咎められぬよう。
四月別時に辻村さんが提綱される由、できれば馳せ参じたく、藤吉さんに定稿をお渡しできるよう、それまでにこちらも全力を尽くします。『壇』の錯綜ほぐしには時間がかかりそうで、別時には間に合わないかも知れませんが、大兄も可能の範囲でおよろしく。
大学生等についての御感想、まことに御尤もです。やくざ口調・覆面・Gewaltはまったく情けない思いです。彼等にしてみれば、ゲバ棒も身心一如的に?杖子として自己表現の具のつもりかもしれませんが、笑止です。ピッケル担いで直入千峰不峰去の山禅に限ります。
戦後日本の徹底的敗戦の要、御共感します。現代日本には幻滅です。僅かに工業面でのし上ったようでも、西欧の方が歴史の厚味、生のゆとり、人間の質の良さ、内面的精神性など、さまざまの面で遥かに勝っているように思われ、存在の故郷は南独やチロル辺にあるかのような気さえして、かえってそちらに切なる郷愁を覚えています。日本もしかし、山中はまだきっとよいでしょう。富高時代、小生も山岳スキー部の山男でしたが、剣岳の威容も仰がざること久し。「老僧、高峰頂に向わず」との趙州の語に薫化されたか。ツァラツストラ山を下る方もおもしろく。(大峰の)覗き岩で吊されたとのお話しは初耳。「香巌上樹」にもまさる「幸夫宙吊り」の新公案現成か。垂示、拈弄、下語、評唱を付し、ＦＡＳ録行録に収めたし。無相にして能く善悪の相を現じたるは誰ぞ。ＦＡＳ
一九六九・三・十 午前三時
書簡(同年三・二六)
拝復
昧爽、太陽と語りて後、踊るが如くに山を下り来ぬ。是れ什麼人の行履ぞ。北山起雲、南山下雨。『臨済録抄綱』Ⅵ及びⅦの原稿御速達、廿三日に拝受、つづいてⅩⅩⅠの浜谷本、原稿御速達、只今拝受、御多繁中、御労苦まことに有難く、深謝申し上げます。両回御同封の玉翰も有難く拝見、目録とテープ日付との誤差ありや否や、よく調べてみます。ＦＢＩ特別機動捜査官の疾風迅雷の如き御出動には驚倒、草賊大敗＊か。さもあらばあれ、テープ三、四は依然として模索不著＊＊。三、四の足立筆録というものもこちらへは届いていませんが、藤吉さんの手を経てこちらへ送られたというのは些か不審です。なお四は五のテープと一緒(裏か表か途中か)ではないでしょうか。この前お送りした五のテープの表記に四の名称も鉛筆で併記されていたので、四と五と一巻になってるのかと思いましたが。(羊頭狗肉なりしか？)この前お送りした五、六、七のテープは藤吉さんを経由せず、北山さんからこちらへ直送された十六本のテープ(三など、問題のテープを含まず)の中にあったものです。仰せの諸点、よく調査してみます。とりあえず一言、御礼まで申し上げます。
至と到とは歴然と区別さるべきものと、御同感です。後の分、四月末で結構です。どうぞ、およろしく。第二巻全巻の校正とは大変ですね。大鵬がゴリラか、ゴリラが大鵬か、御健闘を念じ上げます。全佛即人、全人即佛、空中、剣を揮うが如きものでしょうか。こちら負ける時は総に負く。Knocked down 昏中倒の境界(涯？)に到りぬ。判事近日来、猛耳鳴に疲困し果て、善悪の彼岸、混沌無分別に還帰し、鞫くべきの罪性を見ず、奴郎辨ぜず、邪正分たず、一法の得べきもの無し。ここに槌を打すること三下、公判延期、閉廷を宣して、便ち下り去るものです。
路頭?くる処、再び経過し、昏中倒より何とか再起してがんばりますが、別時上洛は諦めるかもしれません。『壇経』をまず何とかします。なお前稿中、雲門の「乾屎?」はそのままでよいでしょう。洞山の「麻三斤」とともに公案禅ではやります。(『無門関』第廿一則参照)日蓮は「村のルター」か。しかし彼も叡山で坐禅したし、偉い処もあったのでしょう。矢内原忠雄氏も岩波新書『我が尊敬する人物』中に彼を論じていたのを昔、読みました。ＦＡＳ
＊ 『臨済録』上堂四、入矢本二二頁
＊＊『碧巌』三八則風穴鉄牛機、垂示
書簡(同年四・一二午前六・三〇)
前略
第二巻の厖大なる御校正と新学期とでさぞかし御多忙でしょう。御苦労様です。前回、御速達を拝受した三月二十六日夜、羽田空港より阿部さんのお電話あり、第二巻の後記後半はシカゴで書かれる由、皆大変ですね。兵藤さんも関東学院大の紛争の渦中に捲き込まれ、第五巻の校正に旧臘より四ヶ月あまりかかった由。小生も多忙と四大不調で春の別時には遂に不参、第九回目の別時休場を余儀なくされて、今以て昼夜顛倒、悪戦苦闘中ですが、がんばります。さて、北原式目録を再点検しましたが、『臨済録抄綱』の行われた頃の別時は皆出席して、別時ごとに一冊ずつの大学ノートに提綱を速記してあり、あの目録はテープからではなく、そのノートに拠って作成したもので、第何回という回数ならびに日時には確かに間違いがありません。前々回お送り頂いた浜谷原稿は十八、四料簡(一)、(三九・九・一)ですし、前回のは二十一、途中家舎(三九・一二・二一)に提綱されたものであることも確実です。テープ及び原稿の未だ無い二十二、佛法幽玄も確かに三九・一二・二三に提綱されたのを速記してあります。
それでわざわざ北山さん方で御発見下さったテープ二本の表記にⅩⅩ三九・一二・二一及びⅩⅩⅠ三九・一二・二三とあったとすれば、そのテープ番号はⅩⅩⅠ ⅩⅩⅡと一つずつ、ずらすべきで、テープ表記番号の方が誤りです。日付はそれで合います。然るに、テープの実際の内容が一つは三九・一二・二一のⅩⅩⅠとすべきものであるのに、もう一本の方が不明で、若しⅩⅤⅢ四料簡(一)のテープだとすれば、表記と合致しないテープが誤ってそのテープ箱に入れ違えられたものではないでしょうか。なお念のため、その二本のテープの裏面に別のが入っていないかお確かめ頂けると有難いです。
前便で記しましたように、この前お送りしたテープ三本(五・六・七)のうち、五の函に確かに誰かの手で鉛筆でⅣ(三七・一二・二〇)、Ⅴ(三七・一二・二二)と併記されていましたので、四はあのテープの裏(または表)に一緒に入っているのではないでしょうか。これも念のためお確かめ頂きたく存じます。因みにこちらにある『臨』のテープは
一 (三七・九・九)
二 (三七・九・一三)
八 (三八・四・六)
十 (三八・九・三)
十一(三八・九・五)
十八及十九(三九・九・一及び三)
で、テープ番号と日付と一致しています(目録に)。但し、函の表記と中味とが正確に一致しているか、再点検してみる必要がありそうです。
尚、三・二六付のお便りで
『更にまだ未発見のテープ三および四は足立さんが筆記され、五・六・七のテープとともに藤吉さんの手を経て北原さんへ送られたものです』
と記して居られますが、これは何かのお間違いかと存じます。北山さんからどかっとテープの山が送られてきた以前のこちらの記録では、三・四・五・六・七・二十一・二十二はテープの所在不明となって居り、藤吉さんからは『壇』の(七)のテープが足立原稿とともに送られてきた以外にそれらのテープが送られてきた記録は無く、そのままデンマークへ出発されたわけですから、この前そちらへお送りした五・六・七も北山さんから送られてきたのではないかと存じます。一昨秋、理想社へ取りに行った九・十二・十三・十四・十六・十七は原稿にした後、藤吉さんへお返ししたのですが、それ以外に藤吉さんへ返納したこともなく、こちらにある一・二・八・十・十一・十八及十九は一括して茶櫃に厳重保管(さきの五・六・七も含めて)して、防火ブロック書庫に納めて旅に出たわけで、三・四・二十一・二十二は未だ曽てこちらへ送られてきたことも無い(但し、四・五併記の函は一旦来たわけですが)のです。判事も模索不著、長嘆息のみ。
ところで三・二一付前々回御速達の『臨』七、十五枚目聴取に御苦心の箇所「イギン(ゲンともエンとも)ドショウ」は「為人度生」で「はっしゅだん、八種断？」は「活手段」(＝活作略)です。こういうのは近似音さえ鉛筆書きして頂いてあれば、一見便見、直下に判明しますから御心配なく。但し先生御自身のお思い違い、言い間違いは訂正すべきでし
ょうから、疑問点を鉛筆で指摘して頂いてあるのは大いに助かります。「一法の得べきこと無くして、諸法を建立する」という句は確かに『壇経』に見当りませんね。「自性、もと一法の得べき無し」という句は「定慧第四」にあるし、「自性、能く万法を生ず」は六祖の覚そのものですけれども、言葉としては先きの語は無いでしょう。『臨』六、二九枚目、「ヨウをなし妄をなす」は「模を作し、様を作す」でしょう。こういうのは『臨済録』本文にあります。
なお、第五巻の校正をした兵藤さんとも話しましたが、原典引用箇所と固有名詞の他は旧漢字の正字体でなくてもよいでしょう。第一巻でも根底を根柢にしたりした他、案外、略字体が多いようです。體ではなく体でよいでしょう。固有名詞も臨済は済で済ました由、『臨濟録』という時だけ濟にしたとか。大拙全集や西谷先生の『宗教と文化』のように旧漢字旧仮名の昔通りの方が、こちらは読み易いですけれども、若い世代への普及性を図るためにも、殊に話されたものは略字や平仮名を多くするのも止むを得ないでしょう。
下村先生との対談の新刊書の中で、今西錦司教授ですら、宗教を社会現象としてしか見ていないようでした。そういう見方しかできないのが今の若い世代の大部分としても、致し方ない事実かも知れません。創価学会というのは大変な社会勢力になってきて、お手伝いさんも、近くの商店街の人々も殆んど学会員らしく、うっかり悪口も言えません。日蓮宗は国家主義(もっと世界国家にまでよい意味で視野を拡げればともかく)的に凝り固まって、まして「正宗」などというのはファナティックで嫌いですが、日蓮という人は意志的で案外、偉い人だったかもしれず、哲学者でも高山さんあたりは関心がありそうですね。まあ、こちらは活臨済で行きましょう。頑張って下さい。何卒およろしく。ＦＡＳ
書簡(同年六・二九)
拝復
六月二十六日付御速達、昨日有難く拝受しました。『臨済録抄綱』第三回及び第四回(昭和三十七年十二月十八日及び廿日)の分、各四百字詰十七枚、確かに拝受致し、早速、さっと拝見致しました。激甚なる御多忙の中にも拘わりませず、御盡瘁まことに有難く、篤く御礼申し上げます。大層よく行き届いた御原稿にて悦んでいます。お陰様で、テープの切れ目を小生ノートによってつなげばほぼそれだけで大丈夫と存じますが、なお更にテープの代りにノートと照合します故、御安心下さい。御原稿で空き字になっている箇所は一見便見、ひと目でわかりました。「棒下の無生忍」、「死中に活を得る打」、「知音底」「一生受用した」「公案禅というものの弊」「大事了畢」(×大疑〇〇)「純熟」etcです。臨済録は全二十二回中、あと第二十一回「途中家舎」、第二十二回「寔情大難」(昭和三十九年十二月二十一日及び二十三日)の二つがテープも原稿も無しですが、小生のノートから原稿にします。『臨済録』の方はこれでお陰様で完璧を期しうるでしょう。『六祖壇経』の方には往生しています。双方とも七月一杯がギリギリの締切ということを北山さんにお約束しましたので、一ヶ月こもり全力を尽します。
大兄も第二巻の校正を急かされて大変であられる御由、締切を急かされるのは全く辛いものです。小生も兵藤さんから暗い不機嫌な声で急かされるし、(学生部長になった由、ゲバ棒で突き上げられる反動がこちらへ連鎖反応か)、角川書店から急かされている仕事があるし、数ヶ月来、父の方の関係ののっぴきならぬ仕事が次々舞い込んできて、締切仕事の連続で、参禅の喚鐘よりもしんどいことでしたが、これも修行の一つでしょう。兵藤さんの言によると、印刷所の方で遅延にすっかり憤って、もう止めるとか言い出し、理想社でも困り果てているとのこと、閉口です。
去る六月十日、軽井沢星野温泉の入口に父の落葉松詩碑が建立され、一泊で除幕式に参列してきました。碓氷峠の展望台にある鈴木大拙先生の「山深水寒」の碑及び、北軽井沢の奥の林の中にある田辺元先生の「私の希求するところは真実のほかにはない」の碑及び御旧居跡も見て、深く感動しました。これら弧峯頂上の碑に対し、父のは国道沿いの車馬往来の塵埃中で、十字街頭の碑でしたが、「往き来の人を落葉松と見て」で、和光同塵もまた佳いでしょう。かっこうが啼き、山川の音もしていました。浅間嶺が背景で、雄大でした。十三日、羽田空港に西谷先生をお見送りしました。伊丹から飛来され、PAAで飛去されました。ハワイ向け、夜空の中へ。今晩は柴田増実兄をプリンスホテルに訪ねます。ライオンズ・クラブ千二百人を率いて来日の由。辻村兄はドイツへ、池長兄はフランスへ近く赴かれる由、ＦＡＳ航空も活発発地の盛況で何よりです。
ソクラテスの弟子に関しては、誰しもがプラトンのように優秀であることは困難ですが、多勢の中にはディオゲネスのような変り種がいるのも面白いと思います。地中海的風土のもとにあっては、樽の中が如何に快適であるか、エーゲ海沿いのオリーブや無果樹のある浜辺の道で、爽やかな風に吹かれて、そのことがよくわかりました。王侯も威武も屈する能わず、他を奈何せんというような根源的主体性にめざめてあれば、ヘムロックの苦杯＊は喫却しなくとも、ソクラテス精神の一面は顕彰できるわけでしょう。ましてや、元来、自他は不二です。Ｆという所では、師弟も無く、先輩、後輩の別もなく、本来、各自に天上天下唯我独尊です。しかも岐れては、ＦＡＳ協会の兄弟姉妹のみならず、四海は皆、同胞です。日本人とか西洋人とかいう別もありません。ＦＡＳ協会というものを敢て潰すまでもないことと思います。元来潰れています。ましてや、本来、形の無いものをどうやって潰しますか。「東大解体、京大粉砕！」を叫ぶ場合と少しく事情が異って居りましょう。殺活自在であることはよいことですが、問題は起死回生、潰れ切っているものがどうやって起きるかということにありましょう。「ＦＡＳ協会を起たせてみよ」、と峻烈なる川﨑検事、川﨑元あるぜんちん大使にお訊ねしてみたい思いがします。＊＊
『素顔のＦＡＳ協会(FAS-INSTI-
TUTION UNMASKED)の辛辣なる糾弾はたしかに当っているだけに、「では、即今、どうしますか」とちょっとお聞きしてみたいですね。「解体してのち、如何」と。「殺してしまえ、ほととぎす(猫)」の大兄はちと、信長型(南泉型)のようですが、秀吉型・家康型(趙州型)の思考と行動も反面に願わしいですね。＊＊＊委員会の実状は私は空間的地理的に離れているせいで何も存じませんが、大兄は協会の内部にいて知りすぎて御不満の点もおありかと、それも御尤もには存じます。学道道場や道舎のころから、一人に過重負担がかかり、孤立無援であるというような非情の点があり、柳田兄もそれにも愛想をつかして自分から出て行ったというか、遠去かったのではないでしょうか。しかし彼も道場とは切っても切れない縁が深くつながっています。大兄も三高の白線帽をかぶって参加された、あの初期の別時学道や「風信」創刊の頃の聖山兄の孤軍奮闘を知る者の一人としては、彼にも還って来て貰いたいものと、大兄と全く御同感です。道場が彼を容れないというより、彼の方から離れたのではないかと思っていましたが、何れにしても惜しいことです。私は終始、彼を同志と思っています。協会にはさまざまな、違った個性と禀質をもった逸材が実に豊富であることは稀有のこととすら存じます。そのことは、他の禅会などを見ると痛感されます。東京などにぽつんと独り離れていて、周囲はほとんど協会に無理解、無関心な人たちばかりなので、一層懐かしいのです。委員会の皆様も、それぞれ社会的生活の甚しい多繁の中でよくやって居られると、むしろ敬服します。無能の小生にできるのは別時の直日くらいなものですが、その別時にも参ずる時間的余裕ももてない状況になって来て、残念、且つ一部の道人に過重負担を皺寄せをおかけすることにもなって、心苦しく、申し訳なく思っています。しかし億劫相別れて須叟も離れずで、何か協会から疎遠になるというような気持は毛頭ありません。
仰せのように、ＦＡＳ批判、ＦＡＳ協会批判を雑誌に載せるべきだという御意見も賛成です。協会の自己批判、又、他からの批判は大いにあって然るべきことです。久松禅学の批判的討究もあってよいと思います。自他ともに、それによってＦＡＳそのものの根本問題を一層明確にしてゆくこともできましょう。ＦＡＳを何かドグマとして信ずることでなくて、そのはっきりした覚を深く掘り下げ、行じてゆくことが関心事です。＊＊＊＊大兄の御努力に感謝しつつ、寸感まで。御多忙中、御無理を遊ばされませんよう、御自愛の程を。
＊ 毒人蔘のこと。花や葉は人参に似ているが、人蔘とは別種。その中毒症状は手足末端からしびれ、順次筋肉が硬直して死に至るので、極めて惨忍な刑罪とされる。プラトンの『パイドン篇』に描かれているソクラテスの最期の場面も同じように伝えられているので、ソクラテスもこれを服用したと思われている。
＊＊ 昭和三七年五月に久松先生は春光院を離れて室町中立売下ルに転居されたので、それ以後十年あまりはそこでかなり頻繁に委員会が開かれた。当時の委員会は久松先生のほかは藤吉、阿部、北山、辻村、東の各氏のほか私とで構成されていたが、しばしば未だ形を脱せざる自己の衝突やら裏わざが繰拡げられたので、業を煮やした私は北原さん宛の手紙で憤懣をぶちまけたらしい。「あるぜんちん大使」を私に擬しておられるのはどういう事件だったか記憶が定かではないが、たしかその当時アルゼンチンではクーデターがあったような気がするので、「あ大使」の名前はしばしばニュースに登場したに相違ない。この一節は私が放った罵詈雑言を北原さんが槌砕するために書かれたのであろう。
＊＊＊ このあたりは『無門関』十四南泉斬猫の話に基づいている。
＊＊＊＊ 私は北山さんの要請でＦＡＳ協会の機関誌たる『ＦＡＳ』ついで『ポストモダニスト』の編集に加わることになったが、その際に次のように従来の方針を変更することを申出た。一つは従来どおりに久松先生の述作を掲載することを第一義とするのは当然であるが、それ以外の原稿に関してはそれまでエリート限定、高級誌志向に片寄っていて、一般会員には縁遠い存在となっていたのを改め、すべての会員が発表の機会をもてるようにしたいということである。次に、雑誌を以文社から刊行して市販ルートに乗るようになってから、個々の会員に関する私的なニュース―たとえば海外出張とか、学術上の業績を公刊したとか、或いは死亡や転居、転任など―を一切載せないようにしてきたが、個々の会員の消息を伝えることが協会全体の活動状況を告知することになるので、非会員といえどもそれは却って望ましいことではないかと思われた。したがって初期の『風信』が果していた機能を恢復させ、雑誌を通して会員の帰属意識を高めることに役立てたい。そのためには文学作品としての錬度には少少の不足があっても、詩歌や雑文の類も採用することにしたい、と。
最後に、これが私の最も重要と考えた点であったが、ＦＡＳの理念を更に論究し、それに適った実究の方法を一層具体化してゆくために、雑誌を久松先生を含めた会員全体の相互参究の場としたい。しかしその場合に、会員の間で解釈上の対立が生ずるかも知れないが、その一方を正統と認知し、他方を異端として封殺してドグマ化に陥ることを排除し、協会の雑誌がさまざまな小疑を包括した大疑現前の場となることが必要であろう。更にＦＡＳが真に「全人類」・「世界歴史の創造」を実現する原理として樹立されるためには、単にＦＡＳに好意的理解を示す人人だけでなく、懐疑的乃至徹底的反対の立場を採る人人に向かっても開かれた場となし、相互批判的な討究が紙上で展開されることが望ましいということを強く主張した。この内、(一)と(二)に関しては北山さんの賛成が得られたものの、特に(二)の場合には多くの会員から旧来の高級志向の残像が払拭されず、実際に原稿依頼の段階ではよい返事がなかなか得られなかった。ところが(三)に関しては藤吉さん以外の委員には道場の内部分裂を外部に曝け出すことになりかねないとして拒否反応が根強く、体面に拘わる幹部たちの自信のなさと、視野の狭さに痛憤を禁じ得なかった。最後の手段として久松先生に直訴する手もあったが、しこりが残って協力が得られないことになる懼れが十分にあったので諦めることにした。(勿論久松先生は私に直ちに賛同されるに違いないと私は確信していた。)それで私は北原さんに向かって思い切り鬱憤をはらしてしまった。しかし北原さんからは期待どおりに全面的な賛意を得て、協会の将来に若干の希望をもてたのである。
書簡(同年九・二七)
拝復
九月二十一日付お手紙、嬉しく拝見しました。ＦＡＳ誌の拙簡は元来、アッピールについての久松先生の御下問へのお返事の私信にて、慚汗の至りです。東大の加藤総長と小学校で同期(クラスは別)で、過日も三クラス会で会い、励ましておいたようなことで、政府と学生との双方から苛められている彼のような立場に、つい同世代人として同情を覚えるのですが、義弟などは教え子の半分は全共闘なので、そちらの方にも多少の共感も無くはないようで、微妙な立場です。彼等の独特の口調が少し乗り移ったのようです。尤も、「自己批判」は自分でするもので、他から強制されての自己批判なんか御免蒙ると言っています。小生もあの拙簡を記して後、「潮」五月号の瀧沢克己さんの論文など読み、non-sect radicalの立場を徹底せしめて、「自己成立の事実」の原点にまで立ち還ったところから、新たなロゴスの働きを発見しようとされる究明に接し、なるほど、こういう見方もあるのか、宗教者というものはさすがに世間一般とは違った深い見方をするものだと少し感心しました。しかし必ずしも瀧沢さんの意見に同じうるとも限らず、加藤一郎などの「理性」的態度に対しては少々酷な、瀧沢さん特有の信仰者的不寛容の糾弾が強すぎ、加藤を弁護したくなりました。「あいつは能吏にすぎぬ」との巷間の批判もありますが、しかしなかなか「よくおちついて」しっかりした理性を堅持している所、物わかりのよいところは見上げたものだと思います。全共闘の方も付和雷同の徒はともあれ、山本義隆などの指導者級になると、なかなか優秀な人物らしく、独特の論理をもっているようで、瀧沢さんを通してバルトや西田哲学の痕跡すら窺われるようですが、彼らのいう「自己否定」なるものは西田哲学のそれとは雲泥の相違でしょう。東大の場合、医学部や工学部等々に封建的徒弟制度とか産業界との悪因縁とか改革せられるべき膿が溜っていて、文学部なども例外ではなかったのでしょうし、東大そのもの自体の「解体」(どうも久松先生の用語にも似たところもありますね)を主張する彼らの論理もわからないでもありませんが、そういう目的はともかく、ああいう暴力(物理的)がエスカレートして必死なものになってゆく時、火?瓶どころではない、それこそ戦車・大砲・機関銃などありとあらゆる強力な兵器を備えた自衛隊のクーデターでも挑発する危険も予感されます。暴力的風潮があたり前のようなことになると、右翼のテロ行為をも必ず誘発するにきまっていると思います。現実の歴史はＦを主体とするというようなものでなくて、怖るべき業の連鎖反応で動いてゆくようにも思えます。
久松先生がどう現実を観て居られるのか、それが一番知りたいところです。瀧沢さんの見方とはおそらく根本的に違うところがある筈と思っていますが、貴翰によってその一端を知りえて幸いでした。
「一撃に瞿曇をほふる雲門の拳」＊＊
だとか、「打って打って打ちまくる」とか、どうも提綱を見ていると全共闘の造反学生も悦びそうなゲバ的表現が随処に鏤められていて閉口です。「歴史自体を瓦解氷消する」というのですから、これはもう「東大解体」どころではない。おそるべき「宇宙解体」的な殺人剣にて、「清霄(そら)の内にも住(とど)まらず」とか、「碧瑠璃を衝破す」＊＊＊とか、臨済が勇ましく、しかし詩的に表現しているどころではなくて、ハトもタカもソラも＊＊＊＊、うっかりすると猛毒ＶＸで一編に全滅する怖れのある最ラディカルな危険思想ですね。「一人読むべく万人読むべからざるの書」とはかくの如き書をいうのでしょう。御原稿は宇宙爆破的水爆か、地下密造のＶＸか、どうも大変な危険物が舞い込んだようで寒毛卓竪＊＊＊＊＊、おそれ戦いています。おお、ぶるぶるぶる……。
皆々様御苦心、御丹精の結晶ですからして、これは、うっかり触って爆裂しないように細心の注意を払って大切に保管させていただきます。
もう既に久しく猛毒に当って、グロッキーです。『経録抄』をいっそ、「六祖破経図」のようにズタズタに裂いて了わないと生命の危険を覚えます。「六祖破経図」は即今そうしなければならないといった暗示を唆ります。その誘惑は甚大です。けれども、その暗示には拒絶反応を呈し、強靭なる理性にめざめることにします。法学部列品館を荒したゲバ学生どもなら、「六祖破経図」の暗示にひっかかりかねませず、徳山の焚書や行棒なども悪しき範例になりかねませんが、古人の真似は真っ平御免蒙って、創造的に独自の道を進みます。経録を錬り出すようにしましょう。
大兄も銀山鉄壁＊＊＊＊＊＊に攀じ、濁流に没溺の危険を冒して峰から峰へ独走されました由、小生も旧て剣沢のベース・キャンプで合宿したことはあり、剣の八つ峯＊＊＊＊＊＊＊は眼裏に灼きついていますが、君子危きに近寄らず、八つ峯のザイル登攀はいのち知らずの仲間たちに一任し、剣山頂は最も安全なコースで究めました。長次郎谷の雪渓をピッケルを杖にグリセードで滑降したのは快適でした。三十年も前のことです。全体主義的風潮で山岳部も毎日、錬成しなければならなくなり、そこに山が無いので、揺れる大煙突のテッペンや講堂の屋根などから、ザイルで垂直に降下する訓練をしました。大煙突の百尺竿頭は平野を展望してよい眺めではありましたが、もうあんなスリルは御免です。今の大学生は昔の旧制高校生くらいの年齢でしょうから、ストームの踊りの好きだった小生もまんざらあの暴れたい気持ちもわからないでもありませんが。
臨済禅では「富士山を喚んで杓子となせば」、＊＊＊＊＊＊＊＊語滲漏を脱して自在である由、これはソフィストと同じでしょうか。ＦＡＳ
追伸
Ｆ 『臨済録抄綱』、大兄の御原稿のところは坦々たるアウトバーンを疾走するかのようでしたが、その後舗装もない悪路、どろんこ道に入り、遂には路無き砂漠に突入してしまい、蟻地獄に堕ちた蟻のようにあがいた挙句、今や停頓しています。四大不調でどうにもなりません。その内に何とか脱出の活路を開きます。
Ａ 廿七師団の会が自衛隊で開かれるとの案内状に竦然です。
Ｓ 京大に初めて機動隊が入ったころ、これは噂ですからあてになりませんが、西谷先生は変装して野次馬見物にでかけられ、面白がって、全共闘の連中のことを「彼らは英雄だ」と讃えられた由＊＊＊＊＊＊＊＊＊。逆説かもしれませんが、どうも偉い先生方の胸裏は測りかねます。「村のナポレオン」卍総統に挙手したくないですね。
＊ 『ＦＡＳ』ＮＯ．６５／６６号(昭和四五年八月)所収。「久松真一先生」という題になっている。
＊＊ 瞿曇とは釈迦の姓Ｇａｕｔａｍａの音訳であり、転じて佛または佛教をさす。『臨済録』示衆一四に「道流、佛を将って究竟と為すこと莫れ。………所以に文殊は剣に仗って矍曇を殺さんとし、鴦掘は刀を持って釈氏を害せんとす。」(岩波文庫入矢本一三七頁)という一句があるが、『碧巌録』『無門関』『景徳伝灯録』からは、「雲門の拳」を殺佛に結びつけた詞は見出せなかった。しかし『碧巌録』の「第一五則・雲門倒一説」の「垂示」には「殺人刀・活人剣は乃ち上古の風規にして、是れ今時の枢要なり」(岩波文庫・入矢本上巻二○八頁)とあり、また「第五四則・雲門の近ごろ甚処(いずこ)を離れしや」の本則には、「門、打つこと一掌す」とか「門便(すなわち)打つ」(同中二一五、二一六頁)と、二度も出てくるので、先きほど北原さんが挙げた一句もどこかの語録に隠れているのかも知れない。
＊＊＊ この二句は『臨済録』行録一二(入矢本二○一頁)にある。秋月さんによると、「清霄」と「碧瑠璃」はともに「青空」を指し、臨済の師黄檗の教えの譬であって、師の境涯を突き破って飛ぼうとする臨済自身の意気を示した表現とする。しかし入矢さんは「龍、金鳳子を生じ、碧瑠璃を衝破す」とあって、「龍」は黄檗、「金色の鳳凰の子」は他ならぬ臨済自身を指している以上、「碧瑠璃」とは龍の生んだ卵を意味すると解釈している。入矢説の方を採りたい。
＊＊＊＊ 大学紛争が吹荒れていた頃、その運動に理解を示して是認するか、もしくは権威を守って強硬に突っぱねるかによって、大学側やジャーナリズムの間で、ハト派とかタカ派に色分けする論議が盛であった。私は既に所謂改革派の若手教官や一部の学生があまりにも戦術に趨って信義を裏切る実態を具さに知っており、また大学側にも時代遅れの権威主義に固執し、派閥抗争に明け暮れする面があったのも明白であり、結局は戦後の新制大学に含まれる構造的欠陥から来ているので、出発点に戻らない限り根本的解決は不可能と考えていた。その後も屋上屋を重ねる糊塗策に終始し、昏迷を深めただけであるが…。したがって私はハト派にもタカ派にも與せず、ハトもタカもともに「於いて在る場所」としてのソラ派であることを標榜し、どちらも勝手に飛べと突き放した態度を表明していた。それを伝え聞いた或る先輩から「その空はタカ(鷹)よりもタカ(高)いぞ」と論評されたりしていたので、そのような経緯を北原さん宛の手紙で触れていたらしい。しかしずっと後になってからオウムが使用してはじめて有名になった「猛毒ＶＸ」というのがなぜ時代の先端？を切って北原書簡に飛び出してきたのかは全く不可解である。文面からすると私も知っていたことになり、二人ともそれほど兵器マニアではなかった筈だがと首を捻らざるを得ない。
＊＊＊＊＊ 『碧巌録』の「第二則趙州至道無難」の頌に出る「檻(てすり)の前に山深く水寒(つめた)し」に付けられた「著語」[一たび死すれば更に再活せず、還(は)た寒毛(みのけ)の卓竪(よだつ)ことを覚ゆるや]から引かれたものであろう。
＊＊＊＊＊＊ 『碧巌録』「第四二則?居士好雪片片」の「垂示」(中巻一一四頁)にある。禅問答が取りつく島もないほどに難攻不落の公案と化し、急峻にして登攀不可能なることの譬である。禅問答においては、「問は答処に在り、答は問処に在」(『碧巌録』第一五則、本則・評唱、上巻二○九頁)るという域に達することを求められ、涯しなき堂堂廻りに踏み込めずに「?議すれば即ち髑髏の前に鬼を見、尋思すれば則ち黒山の下に打坐す」(同第四五則中巻一一四頁)るぞ、とまで嚇されている。
＊＊＊＊＊＊＊ 剣の八つ峯というのは、北アルプスの剣岳の本峯から北にのびる稜線を辿ったところから東に向かって下降する長次郎雪渓と、更にその北に位置する三の窓雪渓とを岐つ分雪嶺をなしている。その第六峯には高さ一○○メートルに達する垂直の岸壁にＡからＦまで六本の登攀ルートがあって、北穂高岳の瀧谷および谷川岳の一の倉沢と並んで日本の代表的なロック・クライミングの聖地となっている。私は昭和三九年だったと思うが、大谷大学の山岳部員の御陰で、北原さんが降った長次郎谷をグリセードで降ってから一・二峯間ルンゼを登り、第一峯から最後の第八峯に至る急峻な尾根を、まさしく「剣刃上を走る」が如くに踏破したことがあるので、ここはそれに対する北原さんの著語である
。
＊＊＊＊＊＊＊＊ 禅において、一応の悟りを得ながら尚お心に残っている執著やこだわりを滲漏(じんろ)という。『碧巌録』の「第一五則雲門倒一説」の「頌」の「評唱」において「洞山録」の語を引きつつ「三種の滲漏有り。情滲漏・見滲漏・語滲漏なり。…語滲漏とは、妙を体するに宗を失し、機、終始に昧(くら)し」(上巻二一三頁)といい、「なお語句に滞っていること」を指す。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ 西谷先生に関するこの噂話は私には初耳であり、先生が世を去られてしまった今となっては真偽を確かめる手段はない。しかし私は当時京大哲学科の現役の教官のなかに全共闘派の学生に心情的に密着した人が二三いたことを聞いており、武闘を事とする連中がまくし立てる所謂「立て前」論に対する免疫力の欠如ぶりに呆れたことがある。西谷先生がもしそういう行動を取られたのなら、そういう人に影響されたのであろう。
これから三年あまりは賀状を交換しただけで信書のやりとりはなかったらしく、私の手許には昭和四八年一月付の二通の書簡が残っているだけである。この間お互に遅咲きの結婚をして、ともに子供がつづけて生まれた上に、北原さんは杉並区から鎌倉へ、私は東大阪から奈良へ移転したので多忙を窮めていたということもあろう。その上、北原さんはこの頃「洞山五位」の整理で苦闘しておられたのである。
(昭和四八年一・一九)
拝復
颯 頓に暁る＊とは万福、万福。
『六祖壇経』原稿作成に御従事の御由、まことに御苦労様です。
智常の機縁は一九六二年十月二十日、材料科学研究所での講義ですね。小生の速記ノート(現場で直接聴取)を点検した結果、徳山についての引用句は一箇処で、例の「於事無心、於心無事」だけです。この一句子の解明は『臨済録抄綱』＊＊の中にもありました。この一句は西田先生の『日本文化の問題』中にても語られ、小生、中国の戦場で初めてこれに接して深く感動したのでした。
「於事無心であり、於心無事」といわれたのを、筆録者は「盡無心であり、心に具す」と聴き誤ったものと推定します。その句の前のところもどうも聴きとり難い箇所ですが、小生の速記によると、「一切を具備して、一切に染まない。法ももち乍ら(ココ聴キトリニクシ)離れている。離れながら、もっている。徳山『於事無心』、『於心無事』」となっています。
「法、口に従う」と筆録されているとの箇所、これを求むるに竟(つい)に不可得です。おそらく智常の項で?々語られている「空知」という語を「口」と聞き誤ったものか？＊＊＊＊それにしても意味が通じません。恐縮乍ら、該当箇所の原稿をリコピーか何かでお報せ頂けないでしょうか。速記と照合して前後関係を調べれば、文脈などからも察しがつくと思います。「詰点」という語もこの項には見当りません。「心意豁然」とある「豁然」などを聴き違えたものではないか＊＊＊＊＊と想像しています。詰点というような、そういう語は無いでしょう。万一あっても、久松先生がそんなえたいの知れぬ語を講義で用いられる筈がありません。
いやどうも、絶望的にひどい原稿ですね。小生も一読したのかもしれませんが、点検の暇が無かったのでしょう。おそらく聞き違えは上記三項目だけではないでしょう。『臨済録』にもそういう原稿があって、まったく往生しました。『五位』＊＊＊＊＊＊でも、意味が逆になるような疑問箇所が続出して困り果てています。古典的禅籍などでも如何に厳密なテキスト・クリティークが必要かがよく解ります。道元のように『六祖壇経』そのものを「偽経」なりと断じ、「棄てて見るべからず」と割り切れば簡単ですが。何とかしましょう。目下、一月二十五日の白秋会を控え、とりこんでいますので、とりあえず。
追伸 「智常」を含むその原稿はちょっと後廻しにされて、先きの方から片付けられましてはいかが。その原稿は徹底的に再検討する要がありそうですから。
『臨済録』の時でも「無想の自己」なんていうのまであって、泣きたい思いでした。大兄のはほぼ完璧でしたけれども。意味の解らない変な箇所は筆録そのものの信憑性を先ず疑ってかかる必要がありそうです。久松先生の言表そのものは極めてハッキリ筋が通って居り、そう見慣れない変な言句の引用をされることはないのですから、あらぬ文献探しをするのは却って徒労に了ります。
＊ ここは私の方から出した年賀状で、前の年の七月に生れた次男に暁(サトル)という名前をつけたことをお知らせした際に、序に愛称をサットンと呼ぶことにし、それに颯頓と当て字をつけたことに対して、北原さんの方からつけられた著語である。
＊＊ 『久松真一著作集・第六巻経録抄』の二四七頁八行目に出る。
＊＊＊ この一節は『久松真一仏教講義・第四巻事々無礙』所収の「六祖壇経講義」の「機縁第七・智常の機縁」の三九二頁左一行目から三九三頁三行目までの箇所に言及されている。北原さんが赤インクで傍点を振ったところはテープと照合して、「そういう法というものは法をもちながら法を離れており、法を離れながら法をもっている。」という風に決著した。
＊＊＊＊ ここは前掲箇所の三九○頁の四行目から十一行目に当る。
＊＊＊＊＊ ここは『六祖壇経』の本文と対照して、北原さんの言う通りであることが判明した。(同三九一頁左から二～一行目)
＊＊＊＊＊＊ 『五位提綱』の「定稿」を作成するに当っての悪戦苦闘ぶりは『著作集・第六巻』の巻末に置かれた「後記」で極めて簡略に伝えられている(五四五頁～五四六頁)。
書簡（同年一・三一）
拝復
大層とりこんでいまして御返信が遅れ、失礼致しました。小生ノートもやっぱり不完全でして、全速記ではなく、要点のみの筆記でした。しかも志道の項＊の末尾（一九六二・十月二十日）の方は居睡りしていたと見え、よく筆記していません。あの日は日中に人文科学研究所で『正法眼蔵・弁道話』の読書会があり、藤吉さんの研究室で北山さんや坂本さんも列して居られたこと、晩の六時から材料科学研究所で『壇経』講義があり、小生、終りの方では居睡りして了ったこと、今、まざまざと想起しました。
ともあれ、一応小生ノートと対校して、勘案してみました。どうもこの原稿はよく見ていなかったようです。筆録者の筆跡は見たような字ですが、筆録者がおそらくテープを、先生の話されたままにそっくり聴きとろうと粘りづよく喰い下っている、その努力には心撲(う)たれました。若干、聴き違えの混線があるようですが。
テープを探してお送りせねばと思いながら、大変遅くなって済みませんでした。近い内に発送申し上げるつもりです。
小生のノートに書きつけてあるメモを見ると、先生はあの日、ルーズ・リーフ（小）二葉の表裏にぎっしり記入した紙片と、カード数枚と、『壇経』の和本テキスト三冊を持参せられています。してみると、準備万端をととのえて臨まれたもののようで、講義そのものは―あるいは龍頭蛇尾に了ったのかもしれないにせよ―そう支離滅裂に「分疎不下」＊＊になって了われた訳でもなさそうです。むしろ先生が興に乗って珍しく早口になって了われたりして、筆録の方が追いつけなかった（俊？趁不及）＊＊＊のか。それともあまり婆々談義にすぎて、睡魔を誘う結果となったのか…。志道の項に入るや、西谷先生は頻りに紙片に２Ｂ鉛筆で漢文を横書きに書きつけられ、アンダーラインをせっせと施して居られたことが北原ノートの余白にメモしてあります。智常の項の後の方などは講義も甚だ冴えていますが、志道の方は志道の質問そのものがシドロモドロだったりして、やや沈滞、寂滅寸前だったのかもしれません。仰せの通りに。
Woman powerの現前、興深く、これも一公案かと拝察、わが家のW.Pにも辟易、かかる「機縁」第七をも六祖の如く無礙自在に捌きたきものです。一月三十一日a.m.6.
＊ 「智常の機縁」につづく。『仏教講義』第四巻三九四頁より四○○頁まで。
＊＊ 「分疏」の分も疏もともに「わける」を意味し、更に「疏」は「箇条書きにする」「義理を説き明す」意味にも使われるところから、「分疏」は「細かく分けて説明する」意味になる。さて禅籍における「分疏下らず」の用例は『碧巌録』「第五十一則雪峰是什麼」の「本則・評唱」にあり、入矢本では「かいしゃくできざる」（中巻一九一頁）とルビが振られている。そのほか「第八四則維摩不二法門」の「本則・著語」にもあり、そこでは「いいわけならず」（下巻一一六頁）と振られている。
＊＊＊ 『碧巌録』「第八○則趙州孩子六識」の「本則」中に用例があり、「目にもとまらぬ速い動き」を形容するとされた「急水上に毬子を打つ」という一句に対する「著語」として語られていて、入矢本では「はやぶさもおい及ばず」（下巻八○頁）と読み下されている。
後 記
『六祖壇経講義』の完成については既に相当の時日を要することが明白になっていたので、著作集の刊行を急ぐ理想社の意向を考慮して、おそらく昭和四六年中には『経録抄』から省くことが決定されていたように思われる。そして私が責任をもたされていた『著作集第二巻 絶対主体道』（昭和四七年六月刊）の刊行の目途がついた頃に、『壇経講義』は私が気長に仕上げることになったらしい。この間の経緯については私もよく憶えていないのであるが、それまでの『ＦＡＳ』誌を『ポストモダニスト』と改めて、新たに「以文社」から刊行することになり、その第一号（昭和四七年六月）に第一講「序・行由第一」が載っている。そして第二号（昭和四八・三）には途中を後廻しにして「機縁第七」の「智通の機縁」までを載せたので、北原書簡最後の二通は第三号（四九・三）に予定していた「智常・志道」に関するやりとりであった。そして結局最終回が掲載されたのは『ポストモダニスト』誌を再度衣換えした『ブディスト』第一二号（昭和五七・四）であった。この間北原さんは「洞山五位」をめぐって、辻村・北山両氏を相手に精魂を使い果しておられたのであろうが、「六祖」が外れた分だけ身軽になられ、『経録抄』は昭和四八年の年末に無事上梓された。
なお『風信』第五一号に載せた昭和四三年八月二二日付書簡（七頁最上段、左から八行目）につけた＊＊（八頁二段目）において、「出典不詳」と誌した「銅?鉄?、掩室杜詞、松老雲間、昿然自適」は『臨済録』の「序」（朝比奈本二二頁・入矢本一二頁）にあることが判明した。これしきのことに気がつかなかったとは、何たることであったか！喝！！