水と火と                              

                    津久井  朱実

 

楞伽経で「言葉を追わず、その意味を知る」と説かれているところを読み、この「意味」に引っかかっていたとき、二十年以上も前に読んですっかり忘れていた『魔の山』(トーマス・マン)の一場面が思い出されました。この小説の舞台は第一次大戦前のダヴォス(スイス)のサナトリウムです。この場面に至るまで「人類の進歩」を掲げる自由(理想)主義者と、ニヒリズムや中世キリスト教への回帰などを鋭く混交して論じるイエズス会士が、若い主人公への教育的影響を競って長期にわたる舌戦を繰り広げていました。しかし、非常に意味深く思われた議論も、結局、堂々巡りであると見えてきます。そこに登場するのが、東南アジアのオランダ植民地からマラリヤの療養に来たペーペルコルンです。彼の「演説」を聞いていると、非常に重要なことを語っているように「見える」のですが、後で思い返してみると、何を聞いたのか、これといって取り出せるようなものがありません。片言を脈絡なく語っているだけのようでもありますが、この人の全体が人をひきつけます。空高く飛ぶ猛禽に「兄弟」と呼びかけるこの人には、裂かれたような口をした悲劇の仮面、酔った酒神、ゲッセマネのキリスト、熱帯の密林のイメージが重ねられています。

ある日、ペーペルコルンは、名の知られた滝へのピクニックにサナトリウムの患者たちを招待しました。一行は目的地に着きましたが、雪解けの時期でもあり、滝の音があまりにすさまじく、傍らの人の声さえ聞こえません。皆は身振りで、食事はもっと静かなところですることに決めた、と思ったのですが、ペーペルコルンが断固として「ここで」と指差すので、しかたなく従います。そのとき彼は、自分の声も聞こえない轟音の中で演説を始めるのです。聞こえているのは滝の音だけで、何を言っているのかまったくわかりません。つまり、「意味」のある言葉は聞かれませんが、彼は語り、人々は耳を傾けています。今、一面の水しぶきの中で滝がごうごうと鳴っています。何を語っている、何を聞いていると言えるのでしょう。意味とは、「語られたもの」ではなく、「語るもの」、「聞くもの」なのでしょうか。

ちょうどこの頃、西谷啓治の「正法眼蔵講話」を読み返していて、「丙丁童子来求火(火の精が火を求めて来る)」のところに行き当たりました。それは、「即心是仏ということにすっかり達してしまえば、坐禅など必要ないではないか」という問に対する道元の答えです。そのあらましは次のようになります。

【則公監院が法眼禅師の会中に来て三年たったとき、なぜ仏法を問わないのかと法眼禅師に聞かれた。則公監院は、かつて青峰禅師に「この自分の自己とはなんですか」と問い、「丙丁童子来求火」と聞いて、安心の境地に達したと答えた。法眼禅師は「それはよい言葉だが、お前はわかっていないのではないか」と問う。則公監院「丙丁童子は自分が火の精なのに火を求めてきている、自己でありながら自己を求めているのと同じである、ということだと理解しました。」法眼禅師「やはりお前はわかっていない。」則公監院は煩悶して立ち去ったが、思い直して戻り、法眼禅師に陳謝し、今一度問う。「この自分の自己とはなんですか」答えは「丙丁童子来求火」であった。則公監院はこの言葉で仏法を悟った。】

則公監院は、言葉の平面での「意味」を理解していたのでしょう。この意味の世界では、一つの意味から次の意味へとたらいまわしされるだけで、落ち着くところがありません。この「意味」にまったくかかわらないところで、法眼禅師が「火の精が火を求めて来る」と言い、則公監院がそれをそのまま聞いたとき、それを読んでいる私も「火の精が火を求めて来る」と言い、その全体が一面の「火の精が火を求めて来る」であり、無意味の「意味」です。それは何かといえば、ただ、

「火の精が火を求めて来る!」