白井成道氏のエッセイ二点                   

          常盤 義伸

 

 ご夫人、真子様からの喪中ご挨拶状によりますと、白井(しげみち)氏は昨年(2008)9月4日、八十四歳でなくなられたとのことです。ご著書『ハイデッガー研究―思惟の道―』(法政大学出版局1992年)の略歴によりますと、白井さんは1923年宮城県仙台市に生まれられ、1948年京都大学文学部哲学科哲学専攻卒業、1987年大阪府立大学停年退官、同名誉教授、大阪商業大学教授、論文はプロティノス、スピノザ、根本仏教に関するものなど、とあります。協会関係のご著作は次のとおりです。

「序論―西洋形而上学の根拠と禅」FAS第五七号(1965年)。

「西洋形而上学の根拠と禅―試論―」『禅の本質と人間の真理』創文社1969年、所収。

「久松真一先生の宗教哲学」『久松真一の宗教と思想』禅文化研究所1983年。

『久松真一仏教講義』第三巻編集、解説、法蔵館1990年。

"MEMOIRS OF HIROSHIMA" tr. by Nobumichi Takahashi, FAS Society Journal 1996.

 協会の前身、学道道場の最初期の機関誌『學道』No. 2末の会員名簿1950年8月現在によれば、白井さんは1944年12月入会、浪速大学勤務、現住所、京都府長池局区内、青谷村国立療養所、となっており、道人消息の欄に、肺結核のため御病臥、終にご入院、一意療養を期せられることになった、とあります。白井さんと私との接触が頻繁になったのは、『仏教講義』編集を通してでした。上記英訳の原文「原爆追憶」のタイプ原稿(赤色ボールペンで補足訂正されたもの)は、いただいてすぐに上記訳文を作成発表しましたが、原文はすでに『大乗禅』に紹介され、『禅文化』に転載されたと聞きます。

 その後、「京城―自然と歴史」一燈園燈影舎『燈影』2002年7月号発表コピー、「旧制六高 弓道部 友」(1999・1・20)『操弓』抜刷り、「原爆追憶」フランス語訳コピー"Souvenirs de la bombe atomique", DARUMA-n. 6&7,Automne 1999/ Printemps 2000, p. 327-338.とをいただいています。「京城―自然と歴史」は「原爆追憶」の後を承けるものですので、今回改めてこの二点を『風信』に紹介します。前者に添えられた便せんには、こう記されていました。「追伸 コピーで失礼ですが 拙文エッセイをお贈りします 不勉強の証しですから 適当にお取り扱ひ下さい」。しかし、ここには生死の危機に徹した白井さんの思索の結晶があります。それは、読むたびにこみあげる感動と深い共感を誘わずにはおれない秀作です。二点並べて読む機会を提供できることを喜びます。

 白井さんは、鈴木大拙先生の没後四十年記念の追憶文集に、久松先生の厳しさよりも鈴木先生の慈しみ深さに心を惹かれる旨のことを書かれましたが、後日そのことを気にしておられるご様子でした。ご自身が自分を厳しく律する方で、久松先生に傾倒しておられただけに、苦悩を深めておられたようです。ご冥福をお祈り申し上げます。

 

 

 白井成道原爆追憶 

 敗戦の年、私はひとりの学生として京都に下宿していた。文系の学部は閉鎖され、当時、太秦にあった三菱の飛行機工場ではたらいていた。八月になり一週間の休暇がとれた。しばしばの空襲にさまたげられた鈍行列車にのって、広島市平野町の実家にもどったのは、五日の朝のことである。九州に帰省する友人と同行していた。

 その日の午後、友人とともに広島の中心街を歩いた。日本の主要都市のほとんどが空襲の被害をうけていた。ただ軍都広島だけが免れているのに不思議な気持ちであった。沖縄の玉砕をしらせる大きな立看板がかかげられていた。なぜか市民のすがたは少なく、外出中の兵隊だけが街にあふれていたように思う。

 夜になって隣組から回覧板がきた。明日、大空襲があるから疎開するように、との米軍のビラにかかわる内容のものであった、と記憶しているが定かではない。さほど気にもかけず、友人とともに蚊帳のなかで眠った。夜半に、はたして、空襲警報が鳴りわたり、しばらくして大編隊が飛ぶ轟音を聞いたが、疲れていたこともあって、蚊帳のなかに身をひそませているだけであった。何ごともなく編隊は山陰方面に飛び去った。

 翌早朝、市電の停留所まで友人を見送った。帰宅して、もういちど蚊帳のなかで、うとうとと仮眠していた。そのさなか、警戒警報が鳴り一機の爆音が近くにひびいていたことだけは知っている。突如、大爆発が起こった。家の柱は傾き屋根瓦は崩れ、その一角から夏の朝の青空が開けて見えた。何かとてつもなく近くに爆弾がひとつ落下した、と思った。わずかな静寂があった。そのあと近隣一帯から阿鼻叫喚の声が聞こえてきた。私自身、ガラスなどの破片で全身がまみれになっているのに気づいた。右手首の切り傷からがあふれ出ていた。蚊帳を左手と口とで裂き、これを止めた。痛みの感覚は全くなかった。しかしそのとき、一瞬、異様な死の戦慄におそわれた。それは戦争というものの過酷な実態と、機械の破壊力をまえにした人間のひ弱さとを、私がはじめて身をもって経験した瞬間であった。

 自宅の西南わずかなところに千田小学校があった。児童の大半は疎開していたのであろう。陸軍の船舶部隊が校舎を占拠していた。その正門に素足のまま辿りついた私が最初に目撃したのは、部隊の惨状であった。ほぼ一個中隊ほどの兵士たちが校庭の一角に、隊列の跡をとどめたまま、地面に倒れ、うつぶせ、ひざまずいて、苦しみ悶えていたのである。全員が上半身ははだかであった。おそらく朝の体操をしていた時、爆発の閃光をもろにうけたのであろう。ひとり上官らしいひとがよろめき立ちあがって、「帝国軍人たるものが何ごとか」と叱咤していたのを覚えている。

 ぞくぞくと小学校ちかくの住民たちが避難してきた。悲惨なすがたであった。その多くは焼けこげてやぶれた夏着というよりはぼろを身にまとい、焼けはがれた皮ふの素足をひきずり、やけどと傷に泣きさけび、閃光のしょうげきに気がふれてあらぬことを口走っていた。

 これらのひとびとにまじって私は兵士たちのかたわらをとおりすぎ、校庭一面にたがやされた甘藷畑のうねをいくつもこえて、その中央付近までようやく辿りついたが、そこでほとんど力つきるおもいでその場にくずおれた。おびただしい全身からの出であった。

 上空は異様な黒雲のひろがりであった。広島の市街地全域をおおうほどのひろさであった。朝日の斜光をさえぎるひくさではなく附近が日蝕の光景ということではなかったが、その雲のどす黒い色あいと果てしれぬおくぶかさは上空の光を完全に遮断していた。その黒雲のいたるところで、濃淡をたがえながら、雲があらたな雲をよびおこしまきおこし、すさまじい起伏のうねりをたたみ重ねつられていた。その周辺の白雲はほのかな明るみをたたえ、さらにそのまわりはいつもの抜けるような夏空であった。

 この不気味なエネルギーを蔵した黒雲の正体は何か。何が、どこで爆発したのか。ただいちどの爆発音でたちきえたのはなぜか。いのちの危機のただなかにあって疑念がよぎった。それが原子爆弾であるとは知るよしもなかった。市内の軍需工場にある巨大なガソリン・スタンドに爆弾がひとつ落とされ、そこから立ちのぼる油煙が空に結集したのではないか、としか私には思えなかったのである。

 小学校ちかくの民家一帯からいっせいに火災がおきた。校舎にもえうつり、猛烈な夏風をあおりたて、その焔は校庭の樹木をまきこんだ。熱気をはらんだ煙が身ぢかにたちこめてきた。ほぼ百人ちかくもいたであろうか。ひとびとは我れさきにと校庭を南にのがれはじめた。家財道具をせおうひとがいた。リヤカーや大八車にのせて走るひとがいた。そんなところにいると、焼け死ぬぞ、と声をかけて走り去るひとがいた。

 私はいくどか立ちあがろうとしたが、そのつど、ひどい貧状態におちいり倒れた。かたわらの地面に鮮血がながれ黒いしみとなってひろがるのを見ながら、私の心は沈み切っていた。黒雲のかなた、中国山脈の稜線をきわだてる明るみのうちに、少年の時期をおくった京城の紺碧の秋空をおもった。その地で亡くした母の面影がせまってきた。数え年二二才であった。その数字が大きくまた小さく現れてはきえた。ひとが死ぬ時、その生涯のすべてを見る、とある友が語ったことがあった。そのことばがまったくの真実であることを知った。家族とすべての友人、すべての出来事とすべての情景ーーあたかも超スピードで逆回転する映画のフィルムのように、これらのすべてを一瞬のうちに私は見たのであった。

 (北欧の哲学者キルケゴールならば時間のうちに突入する永遠性のアトムとしての瞬間というであろうし、日本の良寛ならばより一層したしく「こうべをめぐらせば五十有余年。人間の是非、一夢のうち」とよむであろう。)

 私はふかい昏迷におちいっていた。そのなかで見しらぬひとの声をきき灼熱の焔をかんじた。意識をとりもどした時、このうつつの明るみは何か、といぶかしかった。被爆者を満載するトラックが列をなしてかたわらを走りすぎるのを見て、ここは戦場だ、私は死地を脱したのだ、とはじめて目が覚めた。さきに多くの軍隊の担架が船舶兵をのせて、校庭をよこぎり走る光景をおもいだした。そのおこぼれをいただいて、学生である私が救いだされたのである。小学校の南方、京橋川にかかる御幸橋のかたわらに放置されていた。

 私は立ちあがり手をふって一台を呼びとめた。荷台にひきあげられて立った時、未知の荒野をきりひらく冒険家ーー軍人ではないーーの明るい気持ちであった。野球の強豪、広陵中学のまえを走りすぎて、トラックは宇品港についた。岸壁にそって日赤のテントがはりつらねられており、負傷者で混雑していた。同乗のひとびとは五十噸ほどの貨物船の底に連れこまれた。八月六日の昼すぎのことである。

 

 船底は暗闇であった。ほぼ三十人ほどの被爆者が船板のうえに雑魚寝した。爆発と閃光、家屋の倒壊と類焼によってすべてのひとは傷をうけており、その治療はまだなされていなかった。傷ついた難民の集団である。異様な静けさがこれをつつんでいた。

 船が動きはじめた。しばらくして衛生兵がふたり、懐中電灯を手にしてあらわれた。ひとりびとりの顔面をてらし手足の脈拍をしらべた。生存をたしかめるためである。そして住所と氏名と年令をたずね、貨物用の荷札にしるし、これを、私のばあいには、ズボンのバンドにくくりつけた。死にそなえてのことであろう。

 歎きも悲しみもなかった。不安も絶望もなかった。あるものは唯ひとつ、日常の世界をつきやぶり奈落の底に投げだされたという事実だけであった。そのことのあきらめのうちには、なぜか、わずかなおかしさがあった。それはとうとう私は人間であることに失格して貨物になってしまった、と思ったときのことである。じっさい人間を物として、死というよりは解体にむかって、荷札をつけて運びこむのが戦争の実態であろう。

 船が止まった。そこが似島であるとは、あとになって知ったことである。私たちはすぐにも上陸するものと思っていた。しかしそれがじっさいに行われたのは深夜になってからであった。思うに広島が空襲をうけた時、その避難先として似島がそなえられていたのであろう。そこに予想を絶する莫大な量の貨物が運びこまれたために荷あげにてまどったのであろう。

 船底の暗闇はより一層ふかまっていった。その間、空襲警報が二、三回にわたって鳴りひびいた。爆発の閃光をおもいだしてのことであろう。婦女子たちは、そのつど、いっせいに声をあげて泣き叫んでいた。

 たまたま私のかたわらに、ひとりの中学生が横たわっていた。学生と生徒というよしみもあって声をかけた。広島高等師範附属中学とのことである。顔面と両腕にやけどをうけ、変色し、はれあがり、いたいたしい様相であった。両眼はほとんど失明していたであろう。うめくような小声で「地獄だ。地獄だ」と言いつづけていた。私はこれを慰めそして励ますよりほかに、何もすることはできなかったのである。

 その地獄のただなかに地獄ならではの悲喜劇が演ぜられた。ひとりの警官が発狂したのであった。警官のいのちともいうべき長大なサーベルを腰にぶらさげたすがたで、革靴をはいたまま、傷ついたひとびとをふみつけ、狂い叫び、走りまわったのである。船底のいたるところで罵声と悲鳴が渦をなし地獄は騒然とした修羅場となった。世の秩序をまもり弱者をいたわるはずの警官である。あまりのことに思わず立ちあがり警官にむかって「馬鹿者」、と私は一喝したのである。

 戦時下、国家権力をかさにきて虚勢をはっているひとびとを、私は嫌っていた。警官もその同族とみていたことは、たしかである。しかし今おもうに、彼は警官ではなくて人間であった。権力も虚勢もぬぎすてた赤裸々な人間が、その貧しさと弱さをさらけだしながら、うごめきあいひしめきあうところが地獄である。その深淵を私よりも深く、彼はのぞきこんでいたにちがいない。警官を叱りつけるということによって悲喜劇を共演することになってしまった私には、地獄の真相に徹しえない傲りと昂りがあったのであろう。

 上陸がはじまった。夏の夜空を背景にして一箇の裸電球が貧寒とした光を木の桟橋に落していた。そこを着の身きのままの被爆者たちが黙々と列をなしながら登っていったのである。

 軍都広島の一翼を担って似島には、古く日清戦争の時から、陸軍帰還兵のための検疫所があった。その建物のうちのひとつでの私たちの暮らしは、ほぼ一週間つづいた。ふたつの戸口をむすぶ通路の両側にござがしかれ、被爆者四十人ほど、ひとりびとりに毛布一枚があてがわれた。日にいちど軍医が部下をひきつれ回診にきたが、包帯をとりかえ消毒液をぬるだけのことであった。その間、広島に新型爆弾が投下されたこと、ソ連が満州に進攻したことについての記事をよんだことは覚えているから、新聞の回覧はなされていたのであろう。

 船底のときと同じ中学生がかたわらにいた。二、三日たって彼はまったく物を言わなくなった。食事も一切とらなくなった。顔面と両腕のやけどは崩れはじめ、蛆がわき、うごめいていた。よりたかる蠅をおいはらう気力さえないようであった。そして同じ建物にいる被爆者の大半はやけどを受けていたが、そのすべてのひとが中学生と同じ惨状におちいっていたのである。

 そんなある日、詰襟濃紺の海軍服をきた士官があらわれた。素足で乞食同然のすがたをしていた私には、まぶしいほど颯爽とした感じであった。中学生の父親であった。軍関係の病院に入れるとのことであった。抱きかかえるようにして連れ去り、別れのことばをかわすこともできなかった。

 通路をへだてた私のまえには上半身はだかの、筋骨たくましい中年のひとがいた。朝鮮半島から徴用された労働者と察せられた。彼は意識を完全に喪失していた。もちろん食事をとることはなかった。朝から晩まで、ただひとつ、同じ動作をくりかえしていた。それはかたわらの柱にすがりつき、立ちあがろうとし、そのつど滑り落ちる、そしてふたたび立ちあがろうとする。この動作のくりかえしであった。人類のはじまりを直立歩行のうちにみるとするならば、この本能的運動の反復には、意識の薄明をもとめて人間であろうとする原初の暗い衝動がはたらいていたのかも知れない。しかしある日、突然、それは立ち消えた。私の眼のまえで彼は柱から滑り、大きく腰を落し、そのまま、ゆっくりと仰向けに巨体をよこたえた。そしてふたたび立ちあがろうとはしなかったのである。しばらくしてひとりの衛生兵があらわれ、そのむくろに一枚のむしろを無雑作にかけて立ち去った。そしてまる一日ほど放置されたあと、むくろは担架にのせられ、戸口から建物のそとに運び出されたのである。

 夕方、戸口からふきこむ浜風は、きまって、遺体を焼く匂いをはこんできた。そしてこのような異常な出来事が日々のいとなみのうちに風化しはじめたころ、いつしか、建物のうちのひと数は半減していたのである。

 (ちなみに本年七月二十九日付の朝日新聞には次のように記されている。「広島に原爆が投下された五十年前の八月六日、似島の検疫所の薬を求めて対岸から一万人以上が船で運び込まれた。薬は底をつき、数千人が亡くなったといわれる。遺体は石油をかけて焼却炉などで何日もかけて焼かれ、防空壕などにも埋められたが、いまだに掘り出されていない遺骨も多い。」原爆投下の直後、大混乱の時のことである。記事が杜撰であることは止むをえないであろう。被爆者と死亡者の数にはたぶんに憶測がはいりこんでいる。薬が底をついたのは事実であろうが、そのころの薬が被爆による苛酷な死にどれほどのかかわりをもちえたかは疑問である。しかし似島の建物のうちで暮らした日々、私がいわばはだ身でもって感じつづけていたことは、おりにふれて衛生兵や看護婦や傷ついたひとびとがもらすことばと相まって、右の記事の後半がまったくの真実であることを証している。数千人という曖昧をきわめた、私にとっては粗暴ともおもわれる数字でもって物量化された名も無いひとびと、貨物としてはこびこまれ荷札さえつけられなかったひとびとが、いまもなお、似島の地に埋れているのである。そしてその一万人以上のうちのひとりとして、私自身、この数千人とさだめを共になしえなかったということが、心の痛みとして残るのである。)

 突然、退去の命令がつたえられた。軍隊の負傷者がはいってくるとのことであった。これを当然のこととしてうけとめて、私たちは建物のそとに出た。木の桟橋を降り、ふたたび貨物船に乗った。上甲板に立っての航路は明るかった。瀬戸内の浪は朝日にきらめき、対岸の本土の山の緑は美しかった。死の家からの開放であった。自然は大きな慰めであった。

 宮島口ちかくに接岸、そこからトラックで石山村というところにはこばれ、寺の本堂に収容された。被爆者五十人ほどである。

 その日の昼すぎに本堂の縁先に列をなして、ひとりびとり、村医から治療をうけた。それまでの純白な包帯にかわって、おしめか何かの色づきの布が傷口にまかれた時、軍と民間との格差を文字どおりまざまざと見せつけられる思いがした。

 夕食として一箇のおにぎりが配られた。その時のことである。寺の住職であるか村の顔役であるかはしらないが、ひとりが立ちあがり、本堂にあふれる被爆者にむかって言った。「このお米は村の方々が汗を流して作ったものです。皆さん、感謝の心をもって食べて下さい。」この説教に私はいいしれぬ憤りを覚えた。その郷土愛は理解できる。しかしそれにしても身と心に傷をうけ、生と死の境をあゆみ、軍隊においはらわれ、ようやく寺にたどりついたひとびとの苦しみを、このひとは何と感じとっているのであろうか。私は寺の庇護のもとに乞食としてかくまわれることをこばみ、被爆者の集団をはなれることを決意した。

 翌朝、村の役場をたずねた。そこで戦災証明書と金五円也とわらじと杖をもらい、広島方面にむかって山道をあるいた。幾たびかうねりまがった道が下り坂にさしかかったところでのことであった。かたわらの傾斜面に小さな水田がたがやされ、堀立小屋のように貧しい農家があった。そのまえに白いチョコリをきた老婆がたたずんでいた。私のみすぼらしく傷ついたすがたを被爆者と見てのことであろう。とっさに老婆は家にはいり、そして大きな麦わらぼうしを手にしてあらわれ、これを黙ったまま私に渡してくれたのである。私はあつく礼をのべて、その場を立ち去った。

 日本による植民地支配の時期、徴用を受けてか、あるいは生活苦のために、朝鮮半島からこの地に渡ってきた家族であろう。その抑圧の差別のもとでの、老婆の無私にして無言のはたらきである。さきの寺の説教とは何という違いであろうか。これこそ共苦としての慈悲の行にほかならない。そこには人種と国家と貧富の別のない人類の原点が見られると思う。いまはこの世にいないであろう老婆をしのぶ心が、年とともに、私には深まってくるのである。

 広島の西部、己斐にたどりついたのは昼すぎのことであった。そこから東と南とを見渡すかぎり、市街地は惨たんとした瓦れきの廃墟であった。

 それから半世紀がすぎた。現在、諸国家のエゴイズム体制の相克と科学技術の猛威とによって支配されている世界は、その本質性格において、被爆の時といささかも変わっていないと思う。

 

 附記。被爆の体験について語ることは、私にとって、たいへん辛いことです。いくら語っても語りつくせることではありません。ほんとうは沈黙すべき事柄であり、そのなかで祈りと悲しみをささげることが最もふさわしい、と思いつづけてきました。あの地獄図のまぼろしを見るにしのびず、原爆が投下されたあとの広島には、いちども、訪ねたことはありません。しかしいつしか晩年になってしまいました。同じ西宮市に住む被爆者の方から熱心に語り継ぎをすすめられ、拙文を草することにしました。(一九九五・八・二五)

 

 白井成道京城―自然と歴史

 京城の秋は紺碧の空であった。どこまでも果てることのない深みを宿し、光みなぎる空であった。 鶴が丘の頂に立って西に望めば、足もとに切り立つ断崖につらなって、低地が開ける。その中ほどを南北に横断する市街路がある。密集した人家の合い間に電車が見え隠れしていた。それは南大門から京城駅まえをへて龍山と元町の方面に分かれてゆく。その電車路のすぐ西がわに並行して、京釜線の鉄道がある。このふたつの線路をこえたさらに西方には、鶴が丘に対峙するかたちで丘陵地がつらなり、新興の住宅が建ち並んでいた。その頂が孝昌公園であった。

 秋の日が公園の彼方にしずむ時、西空一帯は荘厳な茜色にそまり、中天に浮遊する白雲には残照が映った。公園の松林は、茜色の空を背景にして、その一本の木の枝々にいたるまで黒い影に刻みこまれていた。

 京城の秋の鮮烈な落日である。少年の日、いくどとなく、丘のうえで出会い、そこに立ちつくして見た落日の光景であった。それは今もなお、私に明るみを贈りつづけている。

 京城を離れてからは、文字通りの異邦人として、住みつく心を定めることのできないままに、「内地」をさまよう歳月であった。母の死にともなう家庭の崩壊、広島での被爆、京都での数年の療養があった。これにはじまるさまざまな苦しみと惑いの日々が重なる。そのさなかに、いつしか、闇のあるがままに、これを超えてつつむ明るみあることをおぼろに知った。その明るみが京城の落日の光から贈られていることも知った。それは私にとって最も親しいもの、近いもの、そして懐かしいものである。

 これは京城の回想とか記憶の再生とかには尽きないであろう。丘のうえに立ちつくしていた時、私が落日の光を見ていたとか光の内に魅入っていたというよりも、光が私を見ていたのであろう。光が私の内に見入り、その闇の底に、もともと私のうちである光を映し出していたのであろう。この外でもあり内でもある光に外も内もないであろう。それは果てしのない光である。この光こそは真に私を見るものであり見るものなくして見るものである。それは人間と自然のかかわりの源であり、これをつつむ生命の自照である。

 鶴が丘の東の斜面の中腹に我が家があった。庭の垣根にそって、れんぎょうが立ち並びきそっていた。二階の窓ごしに南山の西南部の全容が見晴らされた。左のきわに山麓ひくく、朝鮮神宮の甍がわずかに見える。そこから右手に稜線をたどって登りつめた頂上には、祝祭日にはきまって、日の丸が掲げられ、松風にはためいていた。そのずっと手まえの山裾には三坂通りの住宅が建ち並び、その一角には銀行社宅があり桜並木が植えられていた。春になれば南山の松の緑に淡紅の色彩を添えていた。そのすぐ右がわに龍山中学の図書館だけが見え、そのまえが野砲部隊であった。夜ごとの消灯ラッパは、三坂地区の全域の空をとおり、哀愁の音色をつたえていた。

 朝鮮神宮と日の丸と軍隊、この三つを要点とする南山の全容。それは少年の日、私が見なれ馴じみとなり、今となっては懐かしい失われた故郷の風景である。それは日常の営みのうちに取り入れられ、すこしの違和もおぼえることなく、私はひとりの愛国少年として、それなりに生を享受し、さまざまな夢を描いていたのであった。

 そのころ、神宮が焼かれ日の丸が破られ軍隊が解体される日のことに、誰が思いいたったであろうか。「軍隊は国民をまもらない」(京城三坂小学校文集『鉄石と千草』一九八三 より)。日の丸も神宮も国民をまもらない。この苛酷な背信が歴史の事実となる日が迫っていたのである。

 南山の風景とその変容は近代日本の歴史を語るものであった。日本の近代化が早急になされ、その創成の勢いにのって、もろもろの情勢の帰するところ、植民地支配にすすんだ時、そのはじまりのうちに刻まれていた亀裂が開き、原爆の投下によって軍国主義体制の崩壊にいたったのである。

 そのことは総じて十九世紀後半からの西欧近代国家群の動きとかかわり、より一層ふかくは「世界の問い」につながっている。日本の近代化も原爆の投下も植民地支配も、そうである。

 

 日本の近代化をつらぬく最も重要な事柄とおもわれるのは、日本が西欧の近代国家群を中心とする世界歴史のうちに参加したということである。そしてまた、そのはじまりの時にすでに、知ると知らざるとにかかわらず、その西欧中心の世界歴史が世界の問の性格をあらわし出していたということである。それから百年、いま世界の問は地球の全域を席巻し、これを文字通りひとつの惑える星たらしめている。日本の近代化の歩みはこの世界の問の広がりと深まりの道ゆきと重なり合っているのである。このことを省みることなしに近代化にたいして単純な態度決定をすることはできないのである。

 すでに原爆の投下こそは日本の軍国主義体制を崩壊させ敗戦にいたらしめただけのことではなかった。それはひろく近代の西欧中心の世界歴史にその完成期を劃する出来事だったのである。何故ならば世界の問の目に見えるかたちの極限としてのみ、原爆投下の意味を理解することができるからである。戦わざる人間を殺戮し、人間が住みつくべき大地を荒廃させ、悲しみと苦しみの地獄をくりひろげる。とおく人類の歴史を分断する言語道断が、まさしく近代の世界歴史において起ったのである。

 そしていま、この世界歴史はそれ自身の中心を他ならぬ原爆を投下した国にうつしている。それが世界の唯一超大国である。西欧近代国家群がさまざまなかたちをとりながら、そして日本もまたおくればせにその一環として、ともにとしく多大の禍災を遺した出来事は植民地支配であった。そして他の国家群のさまざまな引き潮とあいまって、いまもなお唯一つ、植民地支配の自国中心主義を原理的にうけつぎ、これを地球の全域にわたっておしひろげているのが超大国である。

 原爆を投下した国そして世界の唯一超大国こそは、要するに、世界の問が坩堝と化しているところである。これが「正義」の真相である。

 

 それゆえ古く日本が北東アジアから受容し同化し再創造した東洋の世界と西洋の近代世界との出会いの問題のただなかにあって、そのうちにひそむ世界の問をあきらめるとともに日本の寄与の可能性をさぐらなければならないであろう。そのことは世界の問の坩堝のうちに自らすすんで巻きこまれようとする愚かな動きよりは、世界歴史においてはるかに重要な関心事でなければならない。ここではそのためのひとつの手がかりを記すにとどめられる。

 総じて西欧の近代国家群を成り立たせているものは何か。それは言うまでもなく近代文明であり、これを基本において動かしているのは科学技術である。科学と技術の本質性格、その異同については立ち入ることはできない。いま省みるべきは、私たちが日々、その恩恵を享受し時にはこれを謳歌している近代文明と、その限りない進歩に希望の夢を託しがちないわゆる科学技術とは、こと人間と自然の問題にかんしては、明らかに限界をもっている、ということである。その文明の「光」はいよいよ華やかになり、技術の「力」は限りなく解き放たれ、加えて情報によって仮想された幻影の闇が深まるなかを、いずこを源としてとも知らず、いずこを行く先としてとも知らず、その無知のうちを我を忘れて急ぎ走る。そこでは人間によって創られた「自然」とこれによって非人間化された「人間」との互いに先だち後だつせめぎ合いの奔走のうちに、人間と自然のかかわりは源を忘れて歪められ、これをつつむ生命の自照に大きな影が落とされるのである。

 これが世界の問としての世界歴史の道ゆきであり、その完成期の終末のすがたである。

 

 京城はソウルとなり年とともに遠ざかって行く。私の想いのうちでは京城は日々に近くなって来る。失われた故郷からの遠さとそれへの近さとは何を指し示しているであろうか。

 道元の言う「廻向返照の退歩」である。(『燈影』2002年7月号発表)