求心について 

大薮 利男

 

私たち人間が生きるということは、本質的になんらかの不安のなかを生きざるをえないものなのだと思います。自分自身に、正直に真っ当に生きようとすればするほど、そこには必然的に矛盾葛藤が生じ、なんらかの意味で、このままでは済ますことができない、何かを求めずにはおれないものとして、私たちは在るのだと言えると思います。

FAS協会の別時学道は今回で○○○回を迎えているのでありますが、本当に歴史の重みを感じざるをえません。過去数十年間、この別時開催にたずさわれた方、あるいは参加されてきた多くの皆さま方の思いや願い、実はその思いや願いと同じものを今、私たちは引きずって、ここに坐っているのであると私は思います。これは人間の永遠の問題、生きることの内に潜めてある、どうしようもなく大きな課題であり、そしてそれは、生きることのやるせなさであり、苦しさでありましょう。そこにうごめかざるを得ないエネルギーの如実なる表現が、今ここの事実でありましょう。この脈々として続いてきたもの、そして今後とも永遠に続かざるを得ないであろうもの、これは重要であります。しかし、現実の社会ではこれらは疎んじられ、忘れられていることも多いのでありますが、人間が真に生きるためには、本当に大切にしていかなければならないものでありましょう。

ここには別時にはじめて参加される方から、もう長い間、坐禅をつづけてこられた経験豊富な方まで、いろいろな方々がおられますが、多くの皆さまは、「納得した生き方をしたい」「本当の自己に目覚めたい」「悟りを得たい」というような求め心があって、いまここで現に坐禅をしておられるのではないでしょうか。

私は常々気になっていることがあります。それは坐禅を長く続けられる人は、そんなに多くはないということです。坐禅はなかなかの曲者であって、容易なものではありません。せっかく坐ることを始められても、「坐ってどうと言えるようなものが何もない」「結果が目に見えない」「一向に目途がたたない。なんぼやっても物足りないだけ」ということから坐禅そのものの意味、坐禅継続が疑問になって、「禅は特定の人のものであって、私のような者のものではない」と決めつけて、何時しか遠ざかるという人が多いのではないでしょうか。私たちの道場の状況を見ましても、坐禅を一度やってみようという人たちは結構多くおられますが、続ける人はそんなに多くありません。禅はここに大きな課題を持っていると私は以前から思ってきました。

今日、実は私は休憩の時間にある人と相互参究をやっていました。その時、求め心ということの意味について気がついたことがあります。私自身も同じ悩みを持って坐禅修行を続けてきた一人でありますが、ここでもう一度、求め心ということと、禅というものについて考えてみたいと思ったのです。ここでは三つの側面から考えてみようと思います。ここで述べますことが全てとは思いませんし、どなたにも納得していただけるものとして述べられているとも思えませんが、一度考えていただき、ご批判いただければ幸いです。

 

求めればそむく

禅修行を行うにあたって、まず大切な要件としてあげられますことは、人生に対する根本的な疑問、苦悩を個人的な自分自身の問題として、自身がどこまで引っ提げているかどうか、ということであります。「現実の自分には飽き足らない」「もっと違った自分、自分らしい自分があるはずだ」「一体どう生きればよいのか…」というやむにやまれぬ苦悩、そこから派生する自分自身への深い疑いであります。

この疑いを、絶対権威の師匠の言葉やある種のドグマをただ信じていく、「信ぜよ、信じれば救われる」というような、中途半端なところから始まる盲信的な信仰でもってことを済まそうというのではいけないと思うのです。どこまでも疑い抜かねばなりません。自分自身の深さにおいて納得できるまで誠実に疑い抜くことが大切です。

この点が欠けるような宗教、巷のうさんくさい宗教はどこかおかしなところへ行ってしまう。私たちお互いが持たされている本来的な常識さえもが狂ってしまうのです。ただの信仰や現世利益から入る宗教は、真の宗教とはなり得ないのだと思います。禅は信じることから始まるのではなくして、むしろ疑うことから始まるのだと言えます。徹底して疑い抜かねばならないのだと思います。

次に、やはり不退の求道心が必要であります。自分自身に真正直にごまかし無く、自分が自分で徹底して肯い、安心できるまで、徹底してやり抜こうという思いであります。このような思い詰めた決意の無いような禅修行であるならば、それはある種の健康法や趣味的余技としかいえないでありましょう。ここに述べましたことは、禅修行上の第一の要件であって、これらの重要性については禅の師匠やなにがしか禅を紹介する本であれば必ず取り上げていることでありましょう。

私は、ここで私たちが陥りやすい落とし穴があると思っています。この落とし穴は、私が私として生きている限りの必然であるとも言えますが、とても重要なことであります。

私たちの多くは、まず仏教や禅を知識として理解しようとします。知識を積み上げた結果、「本当の自己」とか、「仏性」とか、「悟り」とは、こういうものであろうと頭で理解します。理解したものを理想として、求め始めるのであります。

このことは実は、迷いそのものでしかないのです。私たちは頭での理解を第一とする習性のなかで、頭で勝手に理想枠をつくり上げ、そこに向かって、向こうへ向こうへと求め始めるのです。そして、追い求めることこそが修行であると思い込みます。当然、でっち上げた迷いでしかない目標には、どこまで行っても到達できません。その上、何時までたっても埒が明かない自分自身をますます苦しめ、痛めるのであります。(ここで述べたことは、知識無用を言っているのではない。仏道における知識偏重と目標化の危険を述べたまでである。)

修行における不退転の求道心や自分自身への純一さの大切なことは言うまでもないのでありますが、しかし、ある段階において私たちは、非常に重要なことに気づく必要があります。私はこの気づきのために苦難の修行が与えられているのだとさえ思います。ここに到達するためには、ひとり一人に与えられた壁があるのだと思います。その壁に突き当たるまでは七転八倒の苦しみが要求されており、疲労困憊へとへとの絶頂においてのみ、その壁を越えることができるようになっている。

この壁こそが、自分が自分を赦せ、自分が自分を救い上げる関門でありますが、私たちはこの仕組のなかを生かされ、生きているのだと思います。この気づきの中ではじめて、今まで追い求めていたものが迷いでしかなかったこと、そして修行のあり方の間違い、真の修行の意味に気づくのです。

この気づきのなかで、それまでの自分は崩壊するとともに、新たな修行が、ここから始まるのであります。これは仏教から、仏道としての実践の始まりだとも言えるでありましょう。 

禅には「求めてはならない」という側面があります。「求めれば背く」ということであります。求めれば求めるほど、求めるものから離れていくのであります。このことは禅では古来言い尽くされてきていることでありましょう。たとえば、臨済は「念念馳求の心を歇得せば、便ち祖仏と別ならず」とか、「求心歇む処 即無事」というように、『臨済録』ではいろいろな表現を用いて求心の間違いを繰り返し繰り返し説いています。

これは一体どういうことを言うのでありましょうか。それは、求めているもの、そのものが実は求められるもの、そのものだということです。求める私が、求められるべき当体であるという循環的な自己矛盾のなかに陥っているのが、私たち人間の構造であります。

このようなことは、長く禅をやってこられた方なら当然知ってはおられる。しかしながら、実態としてそのような禅をやってこられたかどうか、そこが問題であります。知識としてでなく、実感として気づき、身体を通して、そこをやり抜かない限り人間は安心できない、自分が自分を納得しないようになっているのだと思います。厳しさは自分自身のなかに在るのであります。

 

馳求する底を識るや

次に二つ目の側面について話してみましょう。私たちは、実はいろいろな縁があってここに坐っているのであります。たとえば、この場所の問題一つ取り上げてみましても、この禅堂の好意や都合がついて別時が開催できたのであります。もっと具体的に、私たち一人ひとりの背景をみれば、実にいろいろな問題があったでしょう。家族や職場、また個人的にもやらねばならぬことは多かったはずです。しかし、ここに参加することを、私たちは何らかの理由で選んだのでありました。理由といえばもう本意から外れているのかも知れません。何かがそうさせ、何かが導いていたと言ったほうが適切だとも言えるでしょう。

今日は別時も三日目を迎えていますが、坐そのものはいかがでしょうか。狙いどおりの坐禅ができているでしょうか。「足は痛い」「はてしなく妄想に悩まされる」「眠気にとらわれる」「外の騒音が気になる」等々、いろいろな障害が次々と襲います。「ここに坐って何の意味があるのだろうか」「またまた何の成果も得られそうにない」「無駄な時間を費やしてしまった」というような思いさえもが駆け巡ります。

しかし、私たちはどのようなみすぼらしい、様にならない、恥ずかしい坐禅のなかにいたとしても、もう既に、ここで救われており、赦されている、というものがあるのです。このままで既に結果のなかにいるということです。結果のなかにいて、なお結果を求めるという間違いを起こしてはならないのです。

今まさにここに坐っているもの、坐らせているものは一体なになのか。私をここまで追い詰め、求めまわらせるもの、その当体は一体何者でありましょうか。

 

尽日相対して刹那も対さず

私たちの「見る」という知覚の働きをたとえとして、もう一つの側面から考えてみようと思います。私たちが見るというのは、私の目をもって外の対象物を次々と追っかけていくということです。見たものは意識できますが、見るもののその当体、すなわち目そのもの、目玉を意識することはできません。意識していたのでは見ること、そのことが成り立たないでありましょう。

実体として私たち自身の脚下、私の根底で働きつづけている生きたもの、そのものは、このようなものとして言えるのではないでしょうか。このものは、どこまでも外に見ること、対象化することはできないものであり、形なきものであります。

実は私たちが求めていたものとは、この当体、いわば目玉そのものであって、私の外側にあるようなものではなかったのです。(ここでまた、目玉を対象化するならば、そこにまた、間違いが起こることに留意しなければならない。)

外へ外へ、どこまでも何時までも求めまわったとしても、求めることは永遠にできない。一八〇度の方向転回、内への転換、廻向返照がなされなければ、そのものを証することはできない。それは私への働きとして、今現にあるものを実感として振り向く、それ以外に捉えようのないものなのであって、相対化し客観化して、科学的、理知的に捉えることは到底できないのであります。絶対なるもの、超越せしもの、無なるもの、無相なるものとは、そういうものを言うのでありましょう。このものをまた、大燈国師は「億劫相別れて須臾も離れず 尽日相対して刹那も対さず」と言ったのでありましょう。

 

坐そのものにとらわれ、求心にとらわれているとき、もう一つ陥る危険があります。それは坐禅中に体験する、いろいろな魔境であります。真摯に懸命に坐禅に取り組み、何時しか坐がなじみ、姿勢や呼吸も安定した坐禅ができるようになってきますと、時々、幻覚や体感として奇妙な境涯を体験することが往々にしてあるものであります。この体験はある面、貴重ではありますが危険でもあります。この体験にとらわれ、この体験をもって「私はわかった」「俺は悟った」と思い、それにとらわれはじめると、またまた地獄に落ちざるを得ないのであります。「わかった」「悟った」という主体、この「私」「俺」とは何であったのか、このことが問題とならない限り、どこまで行っても泥沼からは抜けられないのであります。

 

進むべき道

私たちはいかに苦しい道程でありましても、どこまでも徹底して、純粋なる道、真面目な生粋の宗教を求めるものとして、禅を究めていかなければならないと思います。FAS協会は、そういう人たちの集まりでありましょう。私たちの集まりは、当然、何時の時代においても少数派であって、はなばなしいものにはなり得ないでありましょう。真面目に人間そのものを考えつづける集団、少数派でありつづけることに誇りを持った協会であらねばならないと思います。

しかし、このことこそが混迷をつづける現代世界を救う道であると思います。この一点、根源まで立ち返って、ここからものごとを考え、行動しなければ全てはまともにはなり得ない。いわば全て間違いでありましょう。当たり前なことが当たり前に、黙って行われている社会、そんな社会の実現のために、小さくとも一隅、一隅を愚直に照らし合うていく、そんな生き方をしていきたいものだと思っています。

 

〈追記〉

この文章は古い壊れてしまったワープロのフロッピーを整理していて見つけたものである。これは十数年昔の別時学道における私の発言をまとめたものである。この発言の一、二年ほど前、私は健康を害して数カ月間の病院生活を余儀なくされたことがあった。その時、たまたま持っていた『臨済録』(入谷義高訳注、岩波文庫)を手に取ると、面白くなって毎日、毎日読んだ。臨済が言い続けた一つのテーマは、私は「求心」ということであると思ったが、私たちの「求め」心の危険について、徹底して繰り返し繰り返し臨済は説いている。

次に、その部分の一部をここに列挙してみる。( )の数字は岩波文庫本の頁を示す。

「求心やむところ 即ち無事」(42

「ただなんじが信不及なるがために 念々馳求して 頭をもって頭を求む」(56

「ただ能く念をやめよ 更に外に求むること莫れ」(70

「仏を求め 法を求むるは 即ち造地獄の業」(74

「なんじ もし求むることあらば みな苦なり」(88

「あやまることなかれ 外に法なく 内もまた得べからず」(99

「求著すれば 即ち転た遠く 求めざれば 還って目前にあり」(114

「もし人 仏を求むれば この人は仏を失す もし人 道を求むれば この人は道を失す もし人 祖を求むれば この人は祖を失す」(138

 

「臨済録」を手に取っていただくと直ぐわかっていただけると思うが、ここに示したものは極一部であって、臨済はありとあらゆる表現でもって、「求めるな」「求めるな」と言い続けている。臨済の言いたいこととは、一体何なのか。

臨済は「求め」回る、そのことより、「求め」させてくるもの、「求め」ずにはおれない、そのものとは一体何か、そこに廻向返照せよ、それに気づけと言い続けているのだと思う。それは次のような言葉をもってわかる。私は、これらの言葉に出会って救われた。

「馳求する底を識るや」(45

「現今用いる底を信ぜよ」(71

「即今よもに馳求する底 なんじはまたかれを識るや」(114

 

臨済は普通の人間の存在を次のように見ている。そして、ここからの解脱の必要を説き続けているのである。

「自己に具わっている本来のものを信じようとせず ひたすら外に向かって求め回り 古人のくだらない言葉を追っかけ 縁起をかつぎまわって 独立独歩できず 境に逢えば境に引かれ 物に逢えば物に執われ 行く先々でおろおろして さっぱり腰が決まらぬ」(139

「君たちの一念は 何も握っていない拳の指の示すものを実在と思い込み 現象の世界の枠内で妄想し 自ら卑屈になって 私は凡夫だ あの方は聖者だなどという 愚か者めが」(139

20091125