阿部正雄道人訪問インタビュー(2)

江尻祥晃
「風信」第19号(1989年8月)より
平成元年3月30日、阿部正雄道人の自宅で行われたインタビューの記録(部分)。

2. FASにおける修行の方法

−−(江尻)そういう新しい禅として出てきたFASですけれども、それではFASにおける修行の方法というものはどういうものなんでしょうか。

阿部 己事究明の面においても、FASは一つ新しい境地を開いてきていると思いますね。久松先生が強調されたのは、あくまでも自己が自己自身に目覚めるということです。いくら師匠が偉くても「自己に目覚める」ということを師匠から頂戴することはできない。またいくら偉い師匠でも「自己に目覚める」ということを弟子に授けることはできない。「目覚める」ということは、あくまでも自己が自己自身に目覚めるわけですから師匠に頼ることはできないし、また頼ってはならない。

 ですからFASの場合、具体的には参禅ということでも、それは相互参究であって、独参ではない。独参といえば通常老師が隠寮に控えておられ、弟子は一人一人そこへ行って老師に参ずる。その場合、形の上でも、参ずる方が老師の前で三拝をし、それに対して老師は竹篦〔ちくへい、仏家で人を打つのに用いる竹の枝に似たむち〕をもってこうして坐っておられる(姿勢を正す)。老師は参禅を聞く、弟子の方は参禅を聞いてもらうというふうにいわれ、老師の方が軸になっている。もっとも伝統的禅においても入室〔にっしつ〕して三拝をした後は、弟子の方も全く自由に自己の見解を提示することが許されており、その意味では伝統的な独参の場合にも主体と主体とのぶっつかりあい、すなわち相互参究的な参禅が行われています。むしろ独参といわれるものも本来は「相互参究」であるわけですが、現実には必ずしもそうなっていない。それでFASではその点を形の上でもはっきりさせ、形式内容ともに相互参究に徹しようとするわけです。

 先生は「わたくしもあなたがたに参じ、あなたがたもわたくしに参ずる、相互に参じ合う」ということを原則とされたわけです。それで形の上でも入室すれば相互に合掌しあって参究を始めるわけです。あなたがわたくしに参ずるのではない。わたくしに参ずるということはあなたが自身に参ずるということでなければならないということを先生は非常にはっきり言われました。

 だから坐禅もまた、ただの只管打坐ではないし、単なる瞑想でもない。一切を放下して坐に徹するということがそのまま本来の自己に目覚めた姿であるということですね。そういう形で己事究明の面でもFASはとかく形骸化した従来の禅と違って、その本来の姿を現代の中に生かそうとしてきていると思います。

−−従来の伝統禅における独参という在り方を否定されたわけですね。そして、独参に代わるものとしてFASとしては、相互参究をもってきたわけですね。そして相互参究こそが本当だと言われたわけですね。以前、西谷先生のところでもお伺いして、いつも疑問に思うんですけれども、師と弟子の関係を思うんです。師に頼ってはいけないという今の先生のお話ですけれども、やはり師がそこに存在すると言いますか、無相の自己を現わしてそこに現前するということがどうしても必要なんじゃないか、本物がそこにいなければ、相互に参究するといっても難しい。例えば、久松先生がおられたときには、久松先生はご自身「わたくしも参究するんだ」と言われたのかもしれませんけれども、結局久松先生に対していろいろとアプローチしていったわけですね。〔中略〕FASは公案禅でもない、只管打坐でもない新しい禅なんだと言われても、実際にこれこそがFASの修行なんだ、本当の禅なんだというものがあるのか。〔中略〕そういうことについて、先生はどう思われますか。

阿部 さきほど、自己に目覚めるのだから師匠に頼ってはいけないと言いましたが、そのことは必ずしも師匠につく必要がないというわけではないのです。むしろ正師についく、正師を選ぶということは禅の修行上極めて大切なことで、例えば道元は、その人の悟りが正しいかどうかは、その人の師匠が本物化どうかによる、もし本物の師匠に会えなければ修行しない方がよいというくらいに、正師を選ぶことの大切さを強調していますね。これはやはり、われわれの場合でも同じことで、正師を選ぶということは非常に大切だと思います。

 それでは、師を選ぶということの意味はどういうことかということになりますが、それは師の中に自分が目覚める根拠があるとすることを意味するのかどうかということですね。もし自分が自分に目覚める根拠を師の方にありと期待するならば、どんな正しい師を選んでもそこにまた間違いが起こってくる。目覚めるのは自分自身であり、目覚める根拠はあくまでも自分自身の中にあるということは晦まされてはならない。それでは師が大事だということはどういう意味かというと、師は自己が自己の本来に目覚めるうえの、いわば不可欠な機縁として大切なわけですね。いくら目覚める根拠が自分の中にあるといってもそれだけでは抽象的で、具体的にはそれが目覚めるためには何らかの機縁というものがなければならない。

 もっとも、その機縁は必ずしも師匠という人間でなくてもよい。香巖が撃竹の音で目覚めたとか、霊雲が桃花を見て悟ったとかいう場合には、撃竹の音とか桃花の色とかいう自然の出来事が機縁になって目覚めている。他方臨済は「黄檗与麼に老婆にして汝が為にし得て徹困なるに、更に這裏に来たって、過有りや過無きやと問うや」〔黄檗は、それほど老婆のような心遣いでお前のためにくたくたになるほど計らってくれているのに、その上わしのところまでやって来て、落ち度があったかどうかなどと聞くのか(『臨済録』入矢義高訳注、岩波文庫、p.183)〕との大愚の一言で大悟したと言われていますね。いずれの場合にも、目覚めるべき内なる根拠は熟していたが、それが現実に目覚めるには何らかの機縁が必要であったわけです。

 ただこの場合、根拠になるべきものと機縁になるべきものは不可分ではありますが、混同されてはならない。目覚める根拠は、あくまでも機縁になるべきものを越えたものですからね。したがって機縁であるべきものを、それがいかに重要であるとしても直ちに目覚める根拠と取るべきではないわけです。そこに一種の不可逆の関係がある。これは禅の修行上において極めて大切な点だと思います。

 それとともにさらに重要なことは、禅の場合、目覚める根拠となるものは、有的な根拠でなく無的な根拠である。それは機縁と区別された限りでの根拠ではない。むしろそれを内へ越えたものであり、その意味ではそれは根拠ならぬ根拠です。久松先生はそれを「形なき自己」と言われたわけです。「形なき自己」と言われたのは、それは機縁でもなく、機縁と区別されたかぎりでの根拠でもないからであり、しかもそれをあえて「形なき自己」と言われたのは、それこそが真の根拠であるからにほかならないからです。したがって「形なき自己に目覚める」というところでは、根拠であるべきものと機縁であるべきものとの不可逆な関係は越えられる。機縁がそのまま根拠であり、根拠がそのまま機縁である。ですから本来の自己に目覚めるところでは、師弟は全く契当しあうわけです。形なき自己に目覚めた端的においては師弟は全く不二です。また、香巖の場合で言えば、撃竹の音は単に外の自然現象としての音ではなく、撃竹の音そのものに自己本来の声を聞いたのであり、霊雲の場合は、桃花は決して客体的な色のある存在ではなく、桃花そのものに自己本来の面目を見たわけでしょう。

 こういう意味で真の師匠は弟子にとり単に機縁にとどまるものではなく、同時に、目覚めるうえの根拠になるものですが、しかしそれはあくまで根拠ならぬ根拠、無的根拠という意味においてです。つまり師匠が無媒介に、弟子の目覚めるための根拠になるのではない。むしろ師匠は一面あくまで機縁であって機縁以上のものではないということがそこになければならない。また、目覚める根拠は師匠の方にあるのではなく自分自身の方にあるのであるということもはっきりしていなければならない。そのうえで自分自身に目覚める真の根拠は、まさに「形なき自己」であると自覚されてきたとき、自他の別、根拠と機縁の区別を越えて師弟の契当が実現されます。

 ところでFAS協会の現状に立返ったとき、久松先生を失った〔1980年〕ということは我々にとってまことに大きなことで、久松先生なき後のFAS協会はどうすべきかという問題に我々は直面しています。しかしその場合我々がはっきり自覚しなければならないことは、久松先生は決して無媒介に我々が目覚めるための根拠ではないということではないかと思います。先生は確かに我々が目覚めるための得難い機縁ではあられたわけで、その先生を失ったことは我々にとり大きな痛手ではありますが、しかし先生の中に我々が目覚める機縁以上のものを期待したのでは、これはまた間違いのもとになると思います。いつの場合においても、目覚める根拠はあくまでも自分の中にある、自分が自分に目覚めるのであるということは、はっきりしていなくてはならないと思います。

 いま一つの問題は、今のように久松先生のような優れた機縁がおられないと、どんぐりの背競べ、あるいは盲人が盲人を導くというようなことが出てくるわけですね。その場合は、やはりお互いに相互参究するものが、未熟であっても、本当に真剣にひたむきに求めあい、究めあうということがなければならないと思います。そこではそういう厳しさなり激しさが是非とも必要だと思いますね。だから相互参究といってもただの対談ではなく、またいくら激しくといっても自分の主張を一方的に相手に押しつけるのでもない、厳しさはまず自己批判の厳しさを含まなければならない。それとともに妥協を許さぬ形でお互いの存在をかけた主体と主体のぶつかり合いでなければならない。そのような真剣な切磋琢磨の機会というものは、大学のゼミでもその他の場合でも、普段なかなか得られない。FASの平常道場や別時学道というのは坐禅実究の場であるとともにそういう切磋琢磨の場であるということを、道人が十分自覚することが必要ではないかと思います。

〔以下省略〕
(了)


May 30, 1996