仏教が今までにはっきりさせて来なかった問題点は何か

常盤義伸
風信第33号(1995.12.9)

これはある会員からいただいた重要な問題提起である。いま特にキリスト教者たちから仏教者に対してなされる批判の焦点は、社会への関わり方に集中している。いわゆる「社会に関わった仏教(socially engaged Buddhism)」というものが可能かどうかということである。最近私が読む機会に恵まれた、仏教に造詣の深い二人のキリスト教者の書かれたものは、大変啓蒙的であった。

 Winston L. King: "Engaged Buddhism: Past, Present, Future," The EASTERN BUDDHIST, 27-2, Autumn 1994、八木誠一『宗教と言語 宗教の言語』日本基督教団出版局1995年4月

 キング博士は、ケネス・クラフト氏編集の『内なる平和、世界の平和 仏教と非暴力に関するエッセイ』8編と、FAS協会会員クリス・アイヴィス氏の著書『禅の覚と社会』(ハワイ大学出版局、1992年)との内容を紹介し、特にアイヴィス氏の考えに高い評価を与え、未来に社会に関わる仏教を考えて行かれる。極めて個人的な禅が、日本の伝統的な体制の殻を離れて、社会的・政治的な表現活動が第二の本姓になっているキリスト教的ヒュウマニズムの西欧文化のなかで育った人達を通して働きだすときに極めて社会的関心の高いものとなり、それが今度はアジアの仏教にも反映されるだろうとされる。

 八木氏は、久松先生との対談を『覚の宗教』春秋社(1990年)として見事にまとめられた方で、キリスト教と仏教との深い意味の交流を図ることに長年尽力されているが、この著書でも見事な論理を展開しておられる。第七章「禅の言葉とイエスの言葉--その論理的形式」で、久松先生の基本的公案を禅者たちと、そしてイエスの言葉とに見いだし、第八章「神について語る言葉」では、イエスの言う「神の支配」、パウロの言う「キリストの働き」として古い世の終わりと神の国の到来という歴史観が出てくるが、個人的実存を問う仏教では共同体とその歴史を問うことがないとされる。しかしイエスが、神の支配ではなく神について語るとき、神の働きは善と悪、生と死との両方に見られており、そこでは文化や歴史を超えて包むものとしての自然が語られ、したがって善が悪を克服するとする終末論は相対化されてしまって、そこにあるものは無限の開けである、そしてそこで初めて神の支配が見えてくる、とされる。

 クリス・アイヴィス氏は上に挙げた著書で、そしてスティーブン・アンティノフ氏は久松先生の思想をラインホールド・ニーバーの思想と対比した学位論文の中で、ともに久松先生そしてFAS協会の会員が社会倫理を仏教的思想から展開させることができないでいることを批判される。私は、久松先生の末期の句「殺仏殺神」が、仏教の宗教としての立場と同時にその社会的関わりの原理を示すと考える。そもそもインドで大乗仏教が起こったのは、父を殺し母を殺そうとしたアジャータシャトル、そしてアラカンを殺し教団を分裂させブッダを殺そうとしたとされるデーヴァダッタを、無間地獄に落ちる極悪人として、その五つの悪業を強調した上座部などの、現実の政治権力への無批判な追随とそして逆に歴史的現実への無関心と宗教権力への無批判な傾倒と、に対する批判に由来する。『法華経』の提婆達多品、『入楞伽経』の「五無間業の内面的理解」、臨済の「殺仏殺祖」などの「五逆雷」は、みなそのことに関わる。しかしその後の展開で仏教に関わった人々の多くは、この点を明確にして来なかった。現代の我々はどうか。そこが問われている。(1995・4・22)