「デクノボウトヨバレ」

大籔利男

『風信』第37号(1998. 6) pp.4-5
だいぶん前になりますが、英語にヴァルネラブル(vulnerable・・・傷つき易さ、攻撃され易さ、弱みがある)という単語があることを知りました。この言葉は、私にとってどこか気になり、聞き捨てならないものとして、心のどこかに長く引っかかってきました。

私たち人間は、全くいたいけないヴァルネラブルなるものとして生まれ、そこから逃れる方向、インヴァルネラブル(invulnerable・・・傷つくことのない、すきのない、不死身の)なる者への成長が人間の基本的な営みといえるのではないでしようか。すなわち、私たちは自分自身の周りをあらゆる手段で囲い、強固な城壁を築いていくこと、そこに決定的な価値観をおきます。その手段としての知識やお金や権力を求め続けていくように生みつけられ、このことの正しさを盲目的に信じて驀進します。これが実体としての私たち人間の姿ではないでしょうか。

ここで、私にとって非常な問題となってきたことは、実体としての人間の姿、その姿を引きずった我が身の様相に、まざまざと慙愧し、ある時点を契機として、一般的な人間の営みや価値観の世界を捨てて、自分自身から、ヴァルネラブルである方向を積極的に担い、求めようとする人達がいるということ、また、いたという、その事実にでありました。

これらの人達へ、何故かしらもよおす恋慕の念、その意味するところを自分自身の中で、徹底的に見極めたいという思いの中で私は生きてきました。

このような私が恋慕せざるを得ない人の一人として、宮沢賢治がありました。ご承知のように宮沢賢治の晩年は、羅須地人協会の挫折など、あまり恵まれた状況にありませんでした。彼は三七歳という短い生涯でしたが、死の二年前、病床の中で自分自身へのメモとして手帳に書き留めたのであろう詩「雨ニモマケズ」はあまりにも有名であります。

この詩は、ある意味からいえば不思議な詩であります。たとえば最後の一節「ミンナニデクノボウトヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ ワタシハ ナリタイ」とは、いったい彼の何が、どこから言わしめたものでありましょうか。

私はこれは、彼の深奥が迫るヴァルネラブルへの希求の叫びであり、ヴァルネラブルなる状況を自分自身が積極的に引き受ける決意を綴ったものではないかと思うのです。これはまた、彼の持つ高い宗教性から表出したものといえるでしょう。

普通の人間の立場から言うならば、及びもつかないヴァルネラブルなる状況を自身から願い、むしろ素裸への選択を迫るもの、そのものはいったい何ものなのか。ここに私たち人間の不可解と真理がひそんでいると言えるのではないでしょうか。

しかし、この意味するものが本当に見えるのは、ヴァルネラブルなるものを潔く受け入れる覚悟を決めた人、理屈ではなくして百尺竿頭を一歩踏み出した人、その人にしか開き見ることのできない世界 でもあると思うのです。

私は、真の宗教者とはどこまでも、ここを大切にして生きた人だと思う。終生、ヴァルネラブルな立場を徹底し得ない人は、実は真の宗教者とは言えないのだと思います。たとえ宗教を語ったとしても、現実に宗教を生きることを忘れてしまった人の多いことは事実でありましょう。

イエスは荒野でサタンの試練に打ち勝ち、誘惑の拒み、栄光への道を自ら断ちました。そして、あの茨の道を進みました。釈尊もまた然り、沙門としての生活「樹下坐」「乞食」「糞掃衣」「陳棄薬」などは、まさにヴァルネラブルを引き受け、自身をエゴ放棄へ追い込む道そのものを実践し、説いたのだと思うのです。

祖師方はみなそうでした。道元は「学道の人、すべからく貧なるべし」といいましたし、さきほど亡くなったマザーテレサは「貧しいことは美しい」といいました。禅はまた、この境涯を「灰頭土面」「異類中行」「入廛垂手」とか言うように鮮明に打ち出し、下座行を一番重要なものにしました。真の宗教者はヴァルネラブルの立場が意味するところをまざまざと見続けた人達だと思います。

しかし、この道がいかに険しく、難しいものであることかは、少し歴史を振り返っても、昨今の騒がしい世相を見わたしてもすぐに分かることでありましょう。たとえば、初めは間違いなく真理を語る宗教家であっても、あるいは、すばらしく純粋で献身的な慈善活動や社会運動家であったとしても、何時しか世間の評価を受け、だんだんと共感者が集まり、組織が膨らみ、権力や財力が拡大し、リーダが目立ち始めると、そこから、その組織もリーダーもおかしくなる。そして、もっとやっかいなのは個人の問題より、集団エゴの問題でしょう。

いかに崇高な光り輝くような人達や高邁な理念をかかげる集団であったとしても、しょせん人間は人間、当初の思惑とはずれていくのです。流れはインヴァルネラブルな方向へ、それが自然なのです。評価を得れば得るほど慢心が、位が上がれば上がるほど保身が、物が集まれば集まるほど執着が渦巻き、飽くことなく上昇するのです。そして、何時しか堕落の道へとひた走るのです。このような事例があまりにも多すぎると思われませんか。

私は、私が人間として生かされ、人間であることの業をしっかりと、そして、まざまざと自分自身の中に見つめていきたい。そのためにもヴァルネラブルなる立場を自身が前向きに引き受ける覚悟を持ち続けたいと思っています。と言っても、隠者の生活や風狂の群に入ろうなどとは、今は思いません。現代を生きる出家とは、現実社会を生きる沙門の生活とは何なのかを真剣に考え、ささやかであっても行動し続けていきたいと思っています。そのことが、意味しれず私がもよおした恋慕の念への誠実であり、正直であると思うのです。(これは昨年〔11月〕の平常道場「発題」の主旨をまとめ直したものです。)


掲載日:1998-7-11