読後感

常盤義伸
『風信』第40号 pp. 11-13.

最近、久松先生を取り上げた三人の方々の書かれたものに接する機会に恵まれた。その第一の方は石川博子さんで、この方の論文は私にとっては再読であるが、改めて深い感銘を受けた。

旧制高等学校の三年生のとき『善の研究』に出会い、そのあと哲学の学生として西田幾多郎のもとで学ばれた久松先生がどのように思想形成をされ、また自らの向かうべき方向を見極められたか、卒業後、池上湘山との出会いを通して無相の自己の確認を果された後どのように自らの初期の思想を展開されたかを、石川さんご自身の問題意識に衝き動かされながら克明に辿っておられる。一九八一年から八五年まで研究紀要に書かれた論文四号文を本体とし、石川さんが今年五月の総会出席者の前でなさったお話を核にした後記を添えていただき、それに、丹念に石川論文を読み表現について適切な助言をされた川崎幸夫委員の「推薦の辞」と、協会委員会名で私が書かせていただいた「まえがき」を添えて、協会の論集第二号として一冊の単行本を、会員の皆様のお手許にお届けする予定で、内容についてはそのときまでお楽しみにして待っていただきたい。

第二の方は中国の顧錚(こ・そう)という名の、四〇歳を数年先に迎えられる男の方で、この方が大阪府立大学大学院博士論文審査委員会に提出され学位を取得された論文「久松真一における宗教と芸術」のコピーを、特に招かれて審査に当たられた川崎さんのご好意で読ませていただいた。実は、さる四月一八日(日)京大会館で催された心茶会セミナーのお二人の講師の最初がこの顧さんで、倉澤行洋会長のご紹介やご本人の「久松先生のこと」というご講演によると、中国で書の研究をして来られた顧さんは初め神戸大学で倉澤教授のご指導のもと、久松先生の書、そして書家・森田子龍さんの書とに深い関心をもたれ、それから久松先生において宗教と芸術がどう関わるかを研究することに強い関心をもたれ、このテーマに取り組まれることになったという。このテーマには最適の指導者に恵まれて修士課程までを過ごされ研究方法を確立された顧さんは、博士過程を大阪府立大学の花岡永子教授のもとで了えられ、昨年九月、上記のように学位を取得されたとのことである。この方を紹介するのにふさわしいのは、このようにして、私でないことは間違いないが、今は会員の皆様のために簡単に、比較的よくこなれた日本語で書かれた学位論文の読後感を紹介させていただく。

顧さんの「論文要旨」によると、この論文で顧さんは、禅者・宗教哲学者である久松真一の宗教観、とくにその禅観が如何に久松の宗教芸術論を特徴づけているかを、顧さん自身の芸術に対する問題意識から究明された。久松の宗教観と芸術観との関連の解明は従来殆ど発表されていないのでこれは十分意義のあることだ、とされる。この点は、ある程度首肯できそうである。『久松真一著作集』の第四巻『茶道の哲学』の編集者、三村勉、倉澤行洋、第五巻『禅と芸術』の北山正??、兵頭正之助、の四方は協会委員であられるが、倉澤さん以外には、顧さんが接触される前に死去されたか、活動を停止されたかで、議論をされるということはあまりなかったと思う。森田子龍、中村二柄のお二方のご活動については顧さん自身が引用、言及されていることである。とにかく、しかし、顧さんのこの論文で取り上げられたことは、重要なことであり、とくにこのばあい、中国人顧さんがこのテーマに取り組み、論を展開された事は、意義深いことであると私は思う。

禅者・宗教哲学者、久松先生の宗教観、芸術観が中国人顧さんの注目を引き、研究意欲を沸き立たせたことには、云うまでもなく深い歴史的な背景が認められる。久松先生の思想紹介の過程で論文に引用あるいは言及されている禅の古典、たとえば『六祖壇経』『臨済録』『碧巌録』『無門関』『十牛図』、あるいは禅芸術の紹介のなかで言及されている中国の書家や画家は、どれもみな、激しい宗教批判を経た現代中国に育たれたこの気鋭の宗教・芸術研究者にとって、親しいものばかりであろう。さらに、久松先生が日本文のなかで頻繁に使われる漢字表現も、現代日本人によりは、顧さんにとって自国語同然に親しいはずである。

そしてさらに、智恵と慈悲、自覚と覚他、還源と建立などという仏教の考え方を現代にFAS禅として展開される久松先生のお考えに対して社会主義国国民である顧さんは深い理解を示す。

「真の絶対大乗」を唱える久松にとっては、宗教は社会変革のための一つの力にほかならない(第一部第一節おわり)

それと同時に、その久松先生のお考えを現実のFAS協会会員あるいは協会全体が本当にどこまで具体的に受け止めているかを疑い、現実にFAS禅というものが広く社会に拡がらなかった、と指摘する数名の会員の言葉に言及し、そのうちの一人、ジョフ・ショアさんの言葉、

門下生は久松の一九五七年から五八年にかけての訪米を高く評価し、特に神学者ティリッヒとの対話を例にあげる。しかしながら久松を取り巻く一部の人を除いて西洋人にはほとんど影響がなかった。FASとして失敗した(第一部第一節、注7

を顧さんは批判して、そういう判断は時期尚早であり、

西洋には、久松のFAS禅を検討する動きはすでに早くから出始めている。そのもっとも新しい動きは、一九九七年八月にオランダで開催された「仏教と慈悲――日本とヨーロッパにおける禅・ヨーロッパの禅の人々と日本FAS協会との第三回の対話」ちうセミナー及び接心に見られる。それは久松のFAS禅が段々と世界にひろがっていきつつある一例である、とも云えるであろう。(第一部第一章2。学道道場とFAS協会)

と述べ、大変肯定的な評価を与えておられる。ただ、その同じジェフ・ショアさんがオランダでの対話を促進する中心的な役割を果しておられることを顧さんが知られれば、久松先生の欧米訪問が西洋人に影響を与えることに久松先生が失敗されたというのでなくFAS協会は失敗したという意味に解して、ショアさんの言葉が、その「失敗」を協会は克服しなければならないという本人の悲願を背景にして云われていたであろうことをも理解されるに違いない。

石川博子さんの論文と、そしてこの顧さんお論文とをほとんど続けて読ませていただくことになったことを、私は心から感謝している。川崎さんのお話では、顧さんは上海市の紡織大学の助教授として教え始められたとのこと。久松先生の思想の研究者としては顧さんより少し先輩格の香港の呉汝鈞教授(『京都学派哲学:久松真一』、台北一九九五年)とともに、久松先生の研究で学位を取得された顧さんを通して中国における世界思想研究史の上に新しい展開が始まっていることに注目したい。

古代ローマの政治家キケロの老年論『老年の豊かさについて』(法蔵館、一九九九年五月三一日発行)を訳出された八木誠一・八木綾子ご夫妻のこのご労作を最近頂戴した。文末「私の老年論 キケロに寄せて」というエッセイに共訳者、キリスト教神学者八木誠一氏が、特別に対談(一九七七年六月から七八年六月までの間に数回)を許された「美しく魅力的な老人」久松先生のことを語っておられる。

私は最晩年の久松先生と対話をする機会に恵まれ、数回先生のお宅を訪れたのだが、すでに九十歳を越えていくぶん歩行が困難であられた先生は、清潔でお洒落、若い人の美貌とは異なる、彫りが深く陰影に富んだ美しさがあった。語られることは無駄がなくて明快、短い言葉で問題の核心をつかれた。

と描写され、さらに言葉を続けて言われる。

印象的だったのは、私の言葉を私の言わんとする意味に正確に理解された上で的確な応答をされたことである。慈悲に溢れながら妥協がなく、私のような若造(当時)と全く対等に語られながら威厳があった。老人がむさくるしいとは限らない。青年にも壮年にもないよさを身につけ、傾聴に値する言葉を語る。尊敬に値する老年がある。

その秘密を八木さんは、「生死のなかにあって生死を超え、したがって病と老いのなかにあってもこれを超える働き」を意味するパウロと道元との言葉を引き、人にはそれが常に可能であるとされ、そして久松先生の場合は、先生がそのまま「無位の真人」だったといえるところがあり、そこに秘密があると言われる。「しかし誰でも久松先生になれるとはかぎらない。ではどうしたらよいのか。」と問いを進めて、「無為無一物をこお上もない賜物として教授して、その上で出来ること」「自分のためだけではなくて、世のに必要と考えられること」だけをするのがよいとされる。このエッセイは、「自然法爾」の語のもつ重要な意義を取り上げて論ずることで結ばれている。八木さんのお考えには、確かに、久松先生との対談を深い共鳴をもって進められた理由があることを納得させるものがある。

久松先生のことを思い起こすことは、そうするものにとって決して単なる過去の思い出には終わらず、また単なる個人崇拝とも程遠い事柄である。必ずそれは自己と世界との根源的な在り方を思うことと一つである。この共感は広く深く分かち合われるものであると思う。