発題「あなたは基本的公案をどのように受け止めているか」

発題者―EJ
『風信』第44号(2001年7月発行) pp. 1-3.
(質疑応答記録第二回目、2000年10月14日(土)、相国寺山内林光院

【EJ】「今回は前回の資料(7/8の発題の質疑応答記録)をもとに更に相互の理解を深めていきたいと思います。」
《前回の再見》[一「基本的公案は全ての人にとって必要か。あなたにとって是非とも必要か。」という問いに対して]☆基本的公案とは?!「この私がいて、基本的公案というものがあり(私と基本的公案が同次元)、この私が必要とするから取り組む、必要としないから取り組まないというようなものなのか。」「この私が取捨選択できる(要不要を自分で決定できる)ようなものなのか。」「この私が何らかの形をもって生きている限り(有相の自己を生きる限り)突き上げてくるものこそが基本的公案ではないか。もしそうであるならばこの私の要不要の問題ではないことになる。」「この私に絶えず今此処で突き上げてきているものこそが基本的公案なのだ(私と基本的公案は別次元)というとらえ方をしなければならないのではないか。」「しかし、実際は〈自分はどうしてもいけないと思っていない〉〈日常生活や仕事上でどうしてもいけないことは起きるけれども何とか自分の力で解決している〉と言い、私にはこの公案は必要ないという人がいる。こういう方々には基本的公案は問題にならないのか。問題としないでもよいのか。」「基本的公案の〈どうしてもいけない!〉は、全ての人に突き上げてきているもので、誰一人として逃れることはできない(この私の要不要に関わらない)。基本的公案についてはこのようなとらえ方をしなければならないと思う。」
《OC氏前回発言のまとめ》「この私が自分自身を反省する・〈どうしてもいけなければどうするか〉と真剣に取り組む→自覚が深まり〈どうしてもいけない!〉ことが分かるようになる」
「(人間は)自分の悩みの根源をなかなか見ようとしない。」「原罪というものがあるゆえに基本的公案というのが必要になる。」「みんな最後のところは本当にどうしてもいけないところで生きている。」
《それに対するコメント》「原罪とは何か?この私(有相の自己)を自分と思い込んで生きざるを得ないということ、だからこそ基本的公案が必要になる。これはよく分かる。」「この私を私として生き続ける限り、容赦なく基本的公案は突き上げてくる。」「問題はどういうものが基本的公案なのかと言うことではないか。」「OCさんは〈最後のところはみんなどうしてもいけないところで生きている。〉と言われる。つまり、どうしてもいけないところでしか生きていないのに、そうじゃないと思って生きているということである。どうしたら本当に〈どうしてもいけない!〉ということが分かるのか(自覚できるのか)となった場合、OCさんのような行き方(基本的公案のとらえ方)でよいのか。」

【TK】「OCさんとEJさんの違いがはっきりしない!」


【EJ】☆ OC氏のとらえ方この私(有相の自己)が「どうしてもいけなければどうするか」と真剣に取り組んでいけば、結果として「どうしてもいけない!」ということが分かってくる。《この私(有相の自己)からの働きかけ=精進努力の絶対肯定》
☆EJのとらえ方この私(有相の自己)は何もしない=ただ突き上げを受けるだけ。その時はじめて「どうしてもいけない!」がはっきりと分かる。《この私(有相の自己)からの働きかけ=精進努力の絶対否定》

【TK】「EJさんの場合、基本的公案というのは、言葉として与えられるものではなく、突き上げてくるものこそがそれであって、その突き上げそのものとなって展開していく方向だということか。」「OCさんの場合、どうしてもいけなければどうするか(基本的公案)という一つの言葉、それを与えられた問いとして、その問いを問うていくという方向だということか。」「EJさんはそういう違いがあると言っているのか?」

【EJ】「この私(有相の自己)が主体となって取り組んでいく方向→OC氏の方向。この私(有相の自己)が主体を放棄していく(つまり主体的に何もしない)方向→EJの方向だととらえている。」「〈どうしてもいけない!〉という突き上げをただただ(誤魔化さずに)聞く、または感じる方向、この私(有相の自己側)にできることはこれだけではないか。」[例]坐禅とは…この私(有相の自己)が修行をしていくということではなく、この私が何もしないという形で突き上げをストレートに受けていくという姿勢である。☆この私(有相の自己)の修行としての坐禅ということになると、この私が坐禅をして何らかの結果を求めるということになり、そのことで今ある本当の突き上げを見えなくさせてしまう。自分の目を違う方向に向けさせる結果になる。

【HR】「いずれは死ななければならないと自覚したときに絶対矛盾の状態になる。そこではじめて本当にこの公案の〈どうしてもいけなければどうするか〉が分かる。その時は覚悟しかない。」「生身の体がいずれ無くなるという思いに到ったときに、絶対矛盾の世界(どうしてもいけない世界)が出てくると思う。」「〈どうしてもいけない〉ということの突き詰めた大前提はそこじゃないか。」「禅では毎日(日々)が生き死にだ。医学の世界でも細胞は絶えず入れ替わっている。」「日常の生活において、禅的生活というのは日々生と死である。そこにこの基本的公案があると思う。」「EJさんが下から突き上げてくるというのは、日常の言葉で言えば、毎日が生死の世界なんだということ。だから禅で言う〈今此処自分が生きる〉という言葉がある。」「商売の売り買い=相対的矛盾で、どうしてもいけない=絶対的矛盾である。」「OCさんとEJさんの違いはまだ相対的な世界でのことである。絶対的な世界に行ったら一緒だと思う。」「絶対矛盾を突き抜けたら日常のことはへっちゃらになる。」「売ってニコニコ買ってニコニコの世界は絶対矛盾を突き抜けた世界である。」「OCさんとEJさんの世界もそこへ行ったら一緒である。」「EJさんの主張は道元の〈こちらから悟りを求めていったらダメだ。悟りは向こうから来るんだ〉という教えにも通ずると思う。」

【EJ】☆前回のHR氏の発言から
自分の眼前に現れた実際的な問題→「どうしてもいけなければどうするか」と真剣に取り組む→
解決策を見出す「右のような経験を何度となくされたことがあるということだが、基本的公案を個々の問題に適応させて(手段として用いて)解決策を見出す(どうするを導き出す)ことができるということか。つまり基本的公案とは個々の問題を解決するために非常に有効であるということか。」

【HR】「個々の問題は相対的な矛盾である。」「認識上、相対矛盾と絶対矛盾がある。それを分けて考えないといけない。」「〈どうしてもいけない〉は絶対矛盾だと思う。」「絶対矛盾を解決していたら相対矛盾は解決できる。そこに自ずから価値規範もあり、行動方針も出てくる。商売上の(相対的な)問題が出てきたときにも、〈どうしてもいけない〉という公案と同じような行動規範、価値規範がある。それに照らしてみるわけである。」「生死の世界へ行ったら銭金の世界ではない。」

【EJ】「〈どうしてもいけなければどうするか〉という公案を相対的な事柄に適応させて解決策を見出していくということはできるけれども、基本的公案でいう〈どうしてもいけない〉とは、個々の相対的な〈どうしてもいけない〉ではなくて絶対的なものだということか。」

【HR】「それが生死の世界ということ。この公案はそのように捉えなければならない。」「OCさんとEJさんのやりとりも言葉のやりとりで水掛け論になってしまう。」「人間という存在は食物なし、空気なしには生きられない。これがOCさんの言われる原罪だと思う。」「普通は利他自利と言う。先ず人に親切にしなさい。そうすれば自分に返ってくる。自分を無にしたら商売はできるということになる。」「私はOCさんの言われる〈大死一番〉とか〈手を離せ〉ということを、自分の言葉で〈覚悟だ〉と捉えている。」「私は〈機〉ということ〈働き〉ということ、それがなくては駄目だと思う。この参究によって段々分かってきた。」

【TK】「EJさんの問題にしている事柄がOCさんと違うと思うのであれば、違っているものを二つ一緒にすれば具体的になるのではないか。」「もし違っているということがあるとすれば、違ったものが違ったものでないようになることが具体化することだ。そうしないと抽象的になる。もしそのように分けたとするとどちらも抽象的になる。」

【HR】「本当の禅というのは生活禅だ。道元が典座との出会いにおいて〈あっ〉と気づいた世界。こういう場で話し合うことはとても創造的である。」

【OC】「HRさんは生きるか死ぬか(生死問題)が絶対矛盾で、商売の世界は相対矛盾だと言われる。EJさんはいつも我々に突き上げてくるものがあると言う。人間には知恵がある(原罪と言うこと)。知恵があるから満足できない。もっといいもの、もっといいものと求めていく。また、まだダメだ、まだダメだということで絶えず不安である。生きていて不安なんだ。それを絶対矛盾というのではないのか。」

【HR】「私は死が絶対矛盾だと思う。いつまでも生きていたいが死ななければならない。欲の皮が突き上げてきて絶えず喧嘩する。しかし、それが絶対矛盾を解決していたら分かってくる(問題にならない)と思う。」「OCさんの我欲をどうコントロールするかというのも絶対矛盾でしょう。」

【EJ】「HRさんは、人間にはそれぞれの契機というものがあり、基本的公案についても、はじめは分からなかったが、段々と分かってきたと言われた。人間はギリギリのところに追い込まれないと分からないものだとも言われた。」[HR氏の体験再見]
大病を患う→ギリギリの状態に追い込まれる(「どうしてもいけない!」に遭遇する)→病気が治る→ギリギリの状態が消えてしまう(「どうしてもいけない!」が忘れさられてしまう)※以上のようなことを2〜3回繰り返すとやっと身についてくる「一度ギリギリの状態に追い込まれてもまた戻ってしまうのか。」

【HR】「螺旋状に進む。完全には戻らない。」「段々トレーニングされて強くなっていく。」

【EJ】「ある意味で大きなアクシデントに何回か見舞われているうちに段々〈どうしてもいけない!〉というギリギリの状態が身についてきて、人に優しくなれるとか、そういったメリットが出てくると言われているのか。」

【HR】「人生に対して深みが出てくる。自然に(苦労しないで)そうなってくる。本来の人間には仏性があるということにつながる。」「西田哲学の場所的無という世界もやっと分かってきた。」

【OO】「人間は自我を持って、これこそが自分だと思って生きている。自分が有利になるように、自分の身が立つように、直感的にそこを選択しながら生きている。しかし、そういう方向とは全然反対の方向、つまり自分のエゴを捨てたときの清々しさを誰もが知っており、あこがれているのだ。」「HRさんが言われる〈もう死ぬしかない〉というようなギリギリのところでは自分を捨てざるを得ない。こちらの思いでどうこうできない局面に立たされたときには捨てるしかない。」「その時に見渡せる世界は〈無相の世界〉。有相の枠などは取り外された、もっとはてしなく広い、とらわれのない自由の世界」「そういうエゴの霧が晴れた時を宗教的体験とか見性と言っているのだろう。しかし、そこにとらわれたらまたおかしいことになる。」「白隠に〈若い衆や、死ぬのが嫌なら今死にゃれ、一度死んだら、二度死なぬ〉という言葉がある。、息を引き取る時に分かる話ではなくて、今死ぬということができるか、できないか、それが問題なのだ!」

【EJ】「はじめは分からなかったが、段々分かってきたというが、何が分かってきたのか?」

【HR】「自分の言葉で分かってきた。」→EJ「自分の言葉で何が分かってきたのか?」「久松先生の〈私は死なない〉ということが分からなかった。しかし、その時すでに道元の世界は勉強して分かっていた。しかし、違う世界へ入ってきたらもう分からない。FASへ入り、この公案で議論を重ねるうちに分かってきた。」

【TK】「基本的公案の表現について…簡単な表現ではあるが今までにない、誰も言っていない、非常に貴重な表現だ。」


「釈迦の思想とは何か?仏教とは何か?釈迦のもとの教えとは何か?本当の宗教的ポイントとは何か?釈迦の悟りとは何か?→簡単な問題がなかなか分からない。」「ナーガルジュナ(龍樹)…ブッダの思想はここだということを的確に捉えて展開している。→しかしながら、それをつかみ損ねている人がたくさんいる。(例ー「ブッダの思想は非常に倫理的だ。」「宗教というものはない」等々)→肝心の釈迦の悟りがどこにあるかということが全然触れられていない。」「五祖法演(宋の時代の禅者)…「これをあると言ってもいけない、ないと言ってもいけない。さあ、どう言うか」→こういう形で出してくる。(釈迦の悟りの基本と通じている)こういうところを禅者はぴしゃっと押さえてくる。」「表現の仕方はいろいろある。臨済、普化等ユニークだ。」「いろいろあるが、久松先生の〈どうしてもいけなければどうするか〉は非常に大事な表現で、こういう形で釈迦にも誰にでも通用するものを出してきている。これは迷いと悟りと通じたところを表現したものだ。これをお互いに参究する。誰が先生と言うことはない。お互いがお互いに〈そうだ!〉と納得するところが悟りなんだということで出してこられた。簡単に表現を変えてはいけない。こういう表現がでてきているのは極めて重要なんだということを知っておく必要がある。」

【EJ】「TKさんは前回、キリスト教の人、浄土真宗の人はこの公案を問題にしていないと発言された。(TK氏「そこまで深まっていないということだ」)本当のキリスト教徒、浄土真宗信者であれば、そこに留まっていないで打ち破っていかなければならないとも言われた。打ち破って行くためには 〈どうしてもいけない!〉でなくてはならないのではないか。」「今、TKさんは、久松先生が出された〈どうしてもいけなければどうするか〉という表現が大事なのであって、私のように〈どうしてもいけない!〉だけでいいではないかという(表現を変える)のはおかしいと言われた。」「私は基本的公案は〈どうしてもいけない!〉だけでよいと思っている。しかし、前回、TKさんは〈どうしてもいけない―どうする〉では論理がつながらないと言われた。今回も簡単に表現を変えるべきではないと言われている。ここの違いを徹底的な相互参究によって私自身納得したいと思っている。」「TKさんは前回、人間にはいろんなトラブルが起こってくる。しかし基本的には何が問題なのかということが大事なんだと言われた。基本的には何が問題かと突き詰めていくことが大事だということには私も同感だ。」「トラブルは人それぞれであり、ある人が大病をして分かったから私も大病しなければ分からないというようなものではないだろう。」「HRさんは2〜3度大病を繰り返してやっと身についてきたと言われたが、そういう大きなトラブルに見舞われなくては分からないようなものなのか。」「日常の些細な小さなトラブルであっても、なぜそういうトラブルが起こってくるのかという基本的なことを突き詰めていくことが大事だと思っている。トラブルの大小ではなく、基本的に何が問題なのかという突き詰めこそが重要だ。基本的公案というのはそこに鋭く切り込んでいくものでなければならない。」「どんな些細なことでもよい。それが起きて私が苦しむ、苦しまざるを得ないという事実。これはなぜかと突き詰める。現実に何らかの形をもって生きているこの私に絶えず突き上げてくるもの、これが基本的ということではないか。」「私に言わせてもらえば、この基本的な突き上げが〈どうしてもいけない!〉だ。〈どうしてもいけない!〉だけなんだ。〈どうしてもいけなければどうするか〉と突き上げてくるのではなく、いろいろなトラブルに遭遇したときにこの私に突き上げてくるものは〈どうしてもいけない!〉以外にはあり得ない。」「〈どうしてもいけない!〉と突き上げてきている、これこそが基本的公案ではないのか。久松先生の言われる〈全ての人が解かなければならないギリギリの公案〉とは、この私が畢竟どうしてもいけないということに徹底的に気づくと言うことではないのか。」「TKさんは前回〈どうしてもいけなければ〉の〈ければ〉は仮定ではなく、〈どうしてもいけないならば〉〈どうしてもいけないからこそ〉と受け取るべきで、それではじめて〈どうする〉ということが問題になってくるんだと言われた。私はその解釈に賛成する。」「〈どうしてもいけない!〉という事実があるからこそ、はじめて〈どうする〉が出てくるのであって、〈どうしてもいけなければ〉の〈ければ〉を仮定と捉えて、この私が必要だと判断して取り組んでいくということであれば、どこまでいっても解決できないと思う。」

【HR】「いわゆる認識の世界と〈どうするか〉という世界が離れている。穴が空いている。だからEJさんの言うように何もしないで坐っていればそれがもうどうにかなっている。私はEJさんがこの場に来ていることがそれになっていると思う。」「EJさんは〈どうしてもいけない!〉だけに凝り固まっているから、認識の世界でそれを割り切ろうとするから問題があると思う。事実は領域が違うんだ。」「宗教の世界・神の世界は領域が違う(カントの純粋理性では割り切れない)。だから近代科学で徹底的に究明しても超えられない世界がある。むしろ理科系の人がこういう世界を分かりやすいのではないか。」「私はこの公案は違った目で見ないといけないと思う。理性で全部解決しようとすることには問題がある。だから契機を必要とすると言っているんだ。」「若い人は死を考えていない。特に現代人は考えていない。」「私も死を意識しだしてからこういう世界がやっと分かるようになってきた。それまで認識でやってきたけれども全然分からなかった(分かっているようなふりをしてきただけ)。」

【TK】「〈どうしてもいけなければどうするか〉というのは久松先生が、EJさんの本当の自己としての久松先生が、EJさんに問いかけている。そういうふうに思う必要があるのではないか。」「EJさんの中からは〈どうしてもいけなければどうするか〉という問いの〈どうするか〉という後の方が出てこない。」「この公案はこの私(現実の私)から出てきているのではない。突き抜けた本当の私から出てきているのだ。だからこそ公案と言うことになる。そうでなかったら公案にならない。」

【EJ】「だからこそ、突き抜けた本当の私からこの私に突き上げてきているのが〈どうしてもいけない!〉ではないかと言っている。本当の私がこの私に突きつけているのは〈どうしてもいけない!〉だけである。」

【TK】「EJさんに、または我々に突き上げているものが本当の無底の底から突き上げてきていると言い切れるかどうか、底のないところから突き上げてきているとすれば〈どうしてもいけない!〉というのでは終わらない。〈どうしてもいけない!〉で終わったら〈どうしてもいけない!〉ではないことになる。〈どうしてもいけない!〉ところで終わったら自己矛盾になる。久松先生もそうおっしゃった。ニヒリズムの問題点はそこにある。本当は終われない。終わったらおかしい。ニヒリズムで終わったらニヒリズムにならない。」「〈どうしてもいけなければどうするか〉が突き抜けた公案なんだ。これがとっても大事なんだ。」「例えば、〈応無所住而生其心〉という金剛経の言葉を取り上げてよく禅者が言うが、自分というものがどこにも居場所がないとしたらどうするか、だからこそ居場所のないところから働き出なさいと言うことだ。」

【OC】「TKさんはEJさんが〈どうしてもいけない!〉ところで止まっていると思っておられるようだが、本当にそうなのか?」

【EJ】「TKさんは前回もニヒリズムのことを持ち出して、〈どうしてもいけない!〉ところで止まっているようではダメだと、そんなところで止まっていることこそ甘っちょろいもの(自己満足)なんだと言われた。しかし、私は〈どうしてもいけない!〉ところに留まっていて〈どうする!〉という働きが出てこないとは言っていない。この私(有相の自己)に立つ限りは、ただただ〈どうしてもいけない!〉という突き上げを甘んじて受け取る以外に道はないと言っているだけである。」「浄土真宗における妙好人にしても、親鸞聖人にしても、自分は極悪深重のどうしようもない人間だという自覚を持っている。そして、そのことと阿弥陀仏の慈悲を受ける(救いに預かる)こととは一緒なんだという世界に生きている。同様に、この私(有相の自己)に与えられている突き上げ(公案)は〈どうしてもいけない!〉だけなんだ。だけれども、その〈どうしてもいけない!〉と突き上げてきているものこそが無相の自己(本当の自己)であり、そこからの〈どうする!〉という働きなんだ。この私(有相の自己)は無相の自己からの〈どうしてもいけない!〉という突き上げ(つまり、どうする!)によって苦しんでいるとも言える。」「この私(有相の自己)が現に今此処で苦しんでいるということが、とりもなおさず無相の自己の〈どうする!〉という働きかけがあるという証拠だ。」「普通はこの私を主体として(主体と思い込んで)存在しているから、その時には、無相の自己は〈どうしてもいけない!〉としか突き上げてこない。しかしこれは〈どうする!〉が出てこないのではなくて、〈どうしてもいけない!〉という形で〈どうする!〉が働いているのである。この私(何らかの形を持って生きている私)に苦悩を投げかけている、苦悩を起こさせている働きこそ、無相の自己の〈どうする!〉なんだ。」「〈どうしてもいけない!〉の次に〈どうする!〉が出てくるのではなく、この私がどうしてもいけないあり方をしている、有相の自己というあり方をしている限り、〈どうしてもいけない!〉という働きかけ(これこそが本当の〈どうする!〉)がいつもある。」「この私(有相の自己)を主体として生きる限り、無相の自己の〈どうする!〉という働きは絶対否定的に〈どうしてもいけない!〉と働かざるを得ない。」「この私(有相の自己)が本当に自分を手放したときに、無相の自己の〈どうする!〉という働きは、〈どうしてもいけない!〉ではなくなる。つまり、その時には、有相の自己が無くなるのではなく、今までは自分(有相の自己)が主体だと思っていたその主体性が取れ、純粋な(本来の)働き手としての有相の自己にかえることになる(無相の自己主体+有相の自己働き手)。」「浄土真宗において、私達が極悪深重だと感じることを当たり前のこととして(誤魔化さずに)受け取っていくということと、〈どうしてもいけない!〉という突き上げをその通りだとして受け取っていくこととは同じではないだろうか。」「この私(有相の自己)が〈どうする!〉という答を出していくのではない。そんなことは絶対無理である。この私が精進努力すれば〈どうする!〉を導き出せると思ってやっていく方向(基本的公案に取り組む・坐禅する等々)では、いつまでたっても、どこまでいっても本当の〈どうする!〉は出てこない。」

【TK】「大事なことを言っていると思う。」

【HR】「どうしても言葉にして言うと分かれたように受け取ってしまう。しかし、実際は突き上げてきているこの身一つがいのちなんだ。」「言葉で言おうとするから分かれてくる。私は一緒だと言うんだ。」

【OC】「〈どうしてもいけなければどうするか〉という表現の問題だけれども、もとは〈総不可の時そもさん〉であろう。総不可の〈時〉なんだ。英文で訳す場合、〈when〉で訳している場合と〈if〉で訳している場合とがある。どちらがいい(正しい)のか。」

【TK】「どちらも使う。話しかける表現による。」

【OC】「その〈時〉だから、仮定だけではないのではないか。」

【TK】「仮定の形を取っているだけだ。」

【OC】「日本語としてはどうなのか。〈どうしてもいけなければ〉と言ったときに〈いけないから〉という未然形、已然形の両方の場合もあるのではないか。TKさんの言われる〈どうしてもいけないからこそ〉というのはどういう意味なのか。それは誰が言っているのか。」

【TK】「〈どうしてもいけないもの〉が言っている。そのものが言っている。先の〈応無所住而生其心〉と同じこと。〈まさに住するところなくしてその心を生ずべし〉の〈なくして〉に当たる。つなぎ目に当たるわけだ。住するところがあったらその心を起こすことはできない。どこかに自分というものを置いておいたら本当の働きが出てこないということがあるから、問いかけとしてこのような表現を取る。筋道、論理をたどっていくと〈どうしてもいけない!〉ということが主体であって、例えば、個人としての私というものが私の根拠であれば、それは〈どうしてもいけない!〉ことになる。それから何か特定のものをどうかするとかいうことを私の根拠にしていたら動きが取れない。動きが取れないということは特定のものを拠り所としているからだ。私というものを何かあるものとして理解しているから動きが取れない。そういう場合に、そういう時に、なぜ動きが取れないかということは分かってくるはずだ。結局、自分というもの、世界というものを何か特定のものとして理解しているからである。」

【OC】「それではなぜ久松先生は〈どうしてもいけない時にどうしますか〉と言われなかったのか。」

【TK】「それは話し言葉として、例えば〈あなたがどうしてもいけないとしたらどうしますか〉と問いかける。こういう形で出してこられた。それだけのことだ。」「その論理というものは〈どうしてもいけない!〉ということ。〈どうしてもいけない!〉ということを逆に言えば、何かではないというあり方が本当のあり方だということだ。そういう主体であってはじめて具体的なことができることになる。」

【OC】「久松先生は〈どうしてもいけないとすればどうしますか〉と問われた。しかし、TKさんも私も〈それがなかなか分かりません〉と言ったわけだ。そうしたら先生は笑っておられた。私はEJさんのお陰でいろいろ考えさせられた。久松先生の〈どうしてもいけなければどうするか〉ということはEJさんの言うように今どうしてもいけないと分かったら問題ないわけなんだ。普通はなかなか分からない。私は何十年も、久松先生やTKさんの話を聞いているが、まだ分からない。」「久松先生の〈どうしてもいけなければどうするか〉という問いの中には、人間というものは何をやってもいかんのだということがはっきりと含まれているわけだ。しかしそれが分からない。分かったら問題はない。こんな公案はいらないことになる。」「〈どうしてもいけない!〉ということが分からない人に〈どうしてもいけなければどうするか〉というふうに公案として取り組ませる。はじめのうちはそれが何のことか分からないだろうけれども、段々分かってくるんだ。」「いつも〈どうしてもいけない!〉ところ、それが〈応無所住〉だろう。〈我が身、心の置き所がない〉というところ。そこに導くために〈どうしてもいけなければどうするか〉と問いかけていくことが必要ではないか。」「久松先生はTKさんや私が〈分かりません〉と言ってもただ笑っておられるだけだった。決して押しつけるようなことはされなかった。一切、宣伝されなかった。」

【TK】「自分で会得しないといけない。だから、久松先生がおろうとおるまいと関係ない。釈迦がおろうとおるまいと関係ない。自分で会得する。しかし、最も普遍的な問題だから基本的公案という。」

【OC】「問いの中に答があると言うけれども、これが問いにならなかったら公案としては成り立たない。」

【OO】「〈どうしてもいけなければどうするか〉の〈ければ〉は久松先生の人間に対する、人類に対するやさしさだろう。しかし、そのやさしさを突破しないと不思議さだけが残っていくことになる。その言葉をなぜか割り切って捨てられない、不思議さだけがぐずぐずと残っていく。その不思議さは、しかし非常に重要である。その不思議さをEJさんほど徹底的に追いつめないとダメなんだろう。追いつめ追いつめしたときに、その不思議さの意味が見えてくる。ある部分、自分なりに誤魔化すことなく突き詰めてないと、その不思議さが途絶えていく。人間は不思議さを死ぬまでもたざるを得ないのだと思う。」「久松先生が〈ければ〉とわざわざ付けて下さったということ、それも重要な意味があると思う。」

【HR】「私は縦軸に諸行無常、横軸に諸法無我、立体的に涅槃寂静と線を結び、〈それ・今・俺が生きる〉と捉えている。みんなそういう立体的な世界で生きているのではないか。」

【OO】「〈どうしてもいけない!〉と久松先生は言ったけれども、親鸞なんかは極悪深重のどうしようもない人間だと、突き上げてくるものを言うわけだ。その突き上げさせるそのものは何かということだろう。極悪人だと思わさせるもの、それは〈どうしてもいけない!〉と同じことではないか。」「〈どうしてもいけない!〉と思った途端に、本当はもう自分を離れているんだ。〈この俺ではダメだ〉と思ったとき、即そこはもう無相の自己なのだ。こう受け取るべきだ。」「自分の絶対否定即無相の自己!ここは直結している。そしてこのことは誰もが既にどこかで知っていることなのだ。ただ普通は誤魔化して生きているだけなのだ。」

【HR】「日常実践の中においてはどうか。人間というのはつい日常生活の中で紛れてしまう。それが普通の人間というものではないか。」

【EJ】「私達はこの私(有相の自己)を私として日々生活している。そうするといろいろなトラブルが起きてくる。そのトラブルは基本的に何から起きてくるかというと、この私を私として生きているからだろう。一つ一つのトラブルはもちろん解決していかなければならない。しかし、それは一つ解決したらまた別のトラブルが出てくるというように際限がない。」

【HR】「私は生活の信条として、とらわれない素直な心でいろんな渋滞を処理していればいいんじゃないかと思う。私は〈今を生きる〉ということを信条にしている。私はEJさんが、その突き上げを即実際的な具体的な行動としてどうされているのかと聞いている。」

【EJ】「この私(有相の自己)は〈どうしてもいけない!〉という突き上げを絶えず受けている。この私(有相の自己)にできることはただ真摯に、誤魔化さずにその突き上げ=苦悩を受けることだけなんだ。私達はその都度いろんな出来事に出くわし、それで苦しむ。その苦しみはこの私を私としているからこそ起こっているんだということを痛感する(分からせてもらう)。この私が何か立派なことをするということではない。〈ああ私は有相の自己を自己として生きているんだなあ〉〈極悪深重な人間なんだなあ〉と確認させてもらっているようなものである。」「私は今回の発題で問題提起を六つあげさせてもらった。しかし、そのうちここで相互参究できたのは一番と二番だけである。三番から六番まではまだ残ったままである。できるものならば残りの問題提起に対しても皆様からの貴重なご意見をいただきたいと思う。今後何らかの形で継続させていきたいと考えている。」「今日は貴重な相互参究をありがとうございました。」※ 発言者から一言発言者は一人一人自分の論理を持っていますので、一回の発言はそれぞれの論理の全体の中に位置づけられて初めてその意義を発揮するものですが、それが、発言者の中の一人が編集者となってきれいにまとめる現在の形では、編集者がご自分の発言を整理されながらご自分の論理を展開される過程で、その中に含められて、もとの発言者自身の論理から離れて行きます。もちろん、それぞれの発言は、発言者が確認する機会を与えられており、損なわれている訳ではないのですが、それがおかれている全体の流れは編集者がご自分の考えの方向に展開されているという認識を示しておられることに、発言者は、別段賛成している訳ではない今のような場合に、上に言及しました違和感というものが起きてきます。これは、編集者が一生懸命に仕事をされているのと平行して起きている、皮肉な現象、のように思います。私は発言者の一人として、少なくともそういう印象を受けていることを発表して、編集者への感謝をしながら、それとは逆の発言をする、という奇妙な意志表示を受け入れてもらえることを条件に、私の発言が発表されることに同意します。TK