委員長を引受けるに当つて

川崎 幸夫
『風信』第44号(2001年7月発行) pp. 1-3.

常盤さんの跡を承けて、今回FAS協会の委員長をお引受けすることになりました。普通ならばかういふ場合には「図らずも」といふやうなことばを添へて遠慮した形にするものなのですが、以前から肚を括つてゐたことでもありましたので、変な勿体をつけることはやめにして、あつさりと承諾させていただくことに致しました。久松先生が遷化されてから既に久しく、古参の会員からFAS協会のもつ求心力が薄れてゆく一方であることは否めないことでありますし、長らく中心となつて活動された方方がここ十年ほどの間につぎつぎと世を去られてしまひ、今では閑暇にも恵まれ、健康上からもあまり問題がないのは私のほかにはほとんど見当らなくなつたほどですから、逃れる術はまづあるまいと観念してをりました。

とはいつても私にはFAS協会の委員長たるべき資格がないといふことは十分に承知してをります。第一に私は坐禅をそんなにやつてをりません。昭和二四年の秋に入会させていただき、臘月の攝心に参加し、皆に笑はれるほど苦悶の唸り声を出しつづけました。一週間足が痛いといふこと以外の雑念がすつかり消え失せてゐましたので、妙心寺の北門を出てからもずつと夢見心地で、嵐電までの道程を辿りながら東山を望見し、嘗てこれを眺めたことがあるとは到底思へなかつたことを未だによく憶えてをります。その後選佛寺へも霊雲院へも毎回欠かさずに通ひましたが、子供の時からの喘息が日増しに強くなり、四度目の攝心の途中で遂に挫折し、以後十年あまり喘息とヘルツ・ノイローゼで悩まされました。それを見兼ねた哲学の友人の薦めで山登りをはじめ、最初の一二年は喘鳴と戦ひながらの山行でしたが、岳友たちのお陰で喘息は見事退散してくれました。しかし好事魔多しといひますか、或る時大きな岩が堆積してゐる谷をキスリングを担いで下降してゐる途中に不注意のために右足を踏み出す角度を間違へ、左足一本で宙に浮いた身体の向きを切替へたところ、突如として耳の中でグリ!と大きな音が拡がり、左膝の関節を痛めてしまひました。そのことが尾を引いてゐる上に、奈良から関西大学まで往復する度に、本を一杯詰込んだ鞄と風呂敷包とをいつも両手にさげて、トレーニングのつもりがやり過ぎになつたことに、愚にも今時分になつて気がついてゐる仕末です。ですからたとい今から大憤志を起したとしても、結跏趺坐を強行することは私にとつては「暴虎憑河の勇」を奮ふ結果になります。

さういふわけですから、私の禅修行は禅籍に眼を凝して、専ら「不思量底を思量する」といふことに傾き、道元の『普勧坐禅儀』と詞は同じであつても、「思量する」の方に重点をずらした不本意な形をとらざるを得なくなつてをります。固よりその思量が分別知の営みであつてはならないのであつて、「不思量底」そのものの活動が思惟として現れ出てゐる、といふことでなければなりません。私のギリシア語の師匠だつた岡田正三先生は日本人で唯一人プラトンを全訳された方ですが、同時進行で四書五経や『無門関』の口語訳まで出してをられましたが、御自分の禅への念ひを「活字禅」と称してをられました。その時は賛意を表しなかつたのですが、老骨の身となつてみますと大変有難い教へであるやうに思へてきました。「霊は活かし、文字は殺す」といふパウロの言葉があり、この場合の霊はキリストを信ずることによつてもたらされる永遠の生命を意味し、文字とは律法を指すのですが、この言葉を逆手に取つて、「活字禅」とは印刷された文字(禅語録)を合理的方法に則つて理解するにとどまるのではなく、読むことによつて思量から不思量に自己を透化しつつ、文字に霊を吹込むことによつて、文字を活かすことである、といふ風に会得するならば、それは一つの行き方となり得るのではないか、といふ風に考へたいのです。「行住坐臥、悉く禅」ともいはれるわけですから、「読むも禅」といふのも大目に見て貰へないか、と虫のよいことを願つてゐるのです。

少し話がそれましたが、私がFAS教会の委員長たるにふさはしくないと自分でも認めるもう一つの理由は、私が生来真面目一本槍といふのはどうも好きではないといふことなのです。「学道道場綱領」に掲げられてゐますやうに、「大道に驀直向前す」とか、『碧巌録』第七則「法眼、慧超に佛を問ふ」の「本則評唱」に見られる「須らく是れ自己、二六時中精神を打辧すべし」といつたことが大事だといふことは勿論私とても心得てをります。このくらゐの気概をもたなくてはならないとは思ひますが、やはり私には真面目と遊びとが斑模様をなしてゐる方が性に合ふのです。尤も遊びとはいつても私の場合は格別不道徳なことではなく、古社寺や美術館を廻るとか、能楽堂に出没したり、御菓子を物色することくらゐですが、かういふ斑模様が豹のやうに優美で、しかもしなやかな動きを見せて変幻自在であることが「無事是貴人」について懐く私の理想なのです。したがつて生活をFAS一筋に絞つて、綱領の締括で力強く唱へられる「道場日には必ず参じ」の箇所を実行することは困難であることを正直に白状しなければなりません。このやうに多少良くない意味で型破りな委員長といふことになりさうですので、皆様の御理解と御支援を御願ひ申し上げます。

ところで委員長の立場からの発言としては不適当かも知れませんが、FAS協会の現状は決して満足すべきものとは申せません。そのことについては久松先生が春光院を出て室町にお移りになられた頃から北山さんの薦めもあつてずつと委員会の一員に加はり、協会の方向づけに関与してきた私にも応分の責任はあるといはねばなりません。殊に久松先生なき後の協会の足取りはどうしても守りに入つてしまつてをり、頽勢を挽回すべく努力を重ねてはきたのですが、『碧巌録』第二十則「龍牙西来無為」の「本則評唱」にて論難されてゐるやうに、「争奈(いかん)せん、第二頭に落在することを」の域から浮上することはできませんでした。死水につかつたまま「泥裏に土塊を洗ふ」やうな為体(ていたらく)を脱して、「活底の龍」を宿す道は果して開けるのでせうか。このことについては京都大学で哲学や佛教学を専攻した若い人達の参加が久しい以前から途絶えてしまつてをりますので、私は早くから前途に光明を見出すことを諦めてをりました。古参の会員の方方にはもつと突放した見方をされる向きもあるかも知れません。そんなことから私は久松先生が提唱されたFAS禅のもつ革新的な意義は時代を超えて不変のものであることを確信してはをりますが、運動形態としてのFAS協会といふ組織には自ら命運があり、会員の老齢化に伴つて戦線を縮減させ、いづれは機を見て解散すべしと考へ、総会の席でも開陳したことがあります。勿論それでも私には中途で戦線を離脱する考へはなく、ソクラテスに倣つて、たつた一人になつても勇敢なる後衛兵として任務を完うする気持でをりました。しかし最近は少し気持に変化が生じてきたのです。それを述べるには今から四十年ほど昔の一駒に触れねばなりません。

昭和三十六年の五月末あたりではなかつたかと思ひますが、金沢大学で関西哲学会があり、その棹尾を飾るべく公開講演会が行はれて、西谷先生が西田哲学について話をされました。題名も話の内容もすつかり忘れてしまつたのですが、始の内はあまり調子が出ないままぼつりぼつりと話がつづき、予定した時間が迫つてきた頃から漸く調子が出て、このままでは一体いつ果てるやらといつた感じになつた頃、閉会之辞を述べることになつてゐた田中美知太郎先生が気色ばんだ顔をして、鞄をかかへて出口へと急いでは宥められて戻るといふ所作を数回繰返されました。会が撥ねるとすぐ駅へ駆けつけて列車に跳乗るべく切符を買つてあるらしいといふ情報が伝はつてきましたが、西谷先生はそんな慌しい空気を眺めながら一向に頓着することがなく、壇上を往つたり来たりしながら、佳境に入つた御自分の話に没頭し切つて、最後の結末まで余裕綽綽と持つてゆかれました。あまりの傍若無人ぶりに怒心頭に発するに至つたのか、あれほど時間を惜しまれた筈だつたのに挨拶に立つた田中先生は予想を裏切つて長広舌を振はれ、いまの話は要するに直弟子の話に過ぎないのであつて、西田哲学が今後に生かされるためには、直弟子の説を後生大事に信奉してゐてはだめだといふやうな意味のことを、かなりねちねちと話されました。

講演が終つて外へ出ると野田又夫先生が大高時代の生徒であつた井上庄七、橋本峰雄の両先輩と連立つて歩いてをられたのに出喰はし、一緒に歩きながら話をしてゐる内に先程の活劇が話題に上りました。なにしろ私は大分向つ腹を立ててゐましたので、喋舌つてゐる内に小児病的だ!などと痛憤の念をぶちまけてしまひ、二人から「わあ!流石に弟子やな!」と冷かされ、最後に野田先生からも「田中さんのいつたことはやはり正しいんやでえ」と止めを刺されました。まつたく承服できないままその時は口を尖らせてゐたのですが、それから十年たち、二十年たつてゆく内に、田中先生の素振には感心できないといふ点では依然として変りないのですが、直弟子の段階を超えずして新たなる展開はないのだといふ点については成程と思ふやうになつたのです。

創造的な思想がその革新的な意義を本当に花開かせるためには、師匠と直接に触合つた直弟子とは別の線から継承者が現れることがしばしば必要になるといふ考へに私を導いたのは、肉を纏つて人間の姿を取つたイエスに附き随つた直弟子たちとパウロとの関係を知るやうになつてからです。この点について立入つたことを述べると話が長くなりますから、『使徒行伝』の記述を極くかいつまんで申上げることにします。パウロはイエスと同世代でありながらイエス在世中はむしろキリスト教徒を迫害する側の先頭に立つてゐたのですが、或る日沙漠を横断中に突然キリストと純粋に霊的な仕方で遭遇するといふ衝撃的な経験をします。その後イエルサレムへ向ひ、やがて主として異邦人に向つて宣教活動をするといふ役割を与へられたのですが、この間に十二使徒と呼ばれるイエス直系の人達との路線の違ひが決定的な形で表面化しました。この相違を最も本質的な形で明確にしたのは私の知る限りではキェルケゴールの『キリスト教の修練』(Einuebung im Christentum)といふ書物だと思ひますから、キェルケゴールの表現を借りて説明することにします。

ナザレの女性の子として生まれたイエスが父なる神の独り子たるキリストであると主張すること、つまりまつたく異なる二つの本性が矛盾対立したままに同一であるといふことを承認することは理性的には不可能なことであつて、ユダヤ人ですら躓くことであつたのですから、これを真理として証しするためには、一切の思惟を放擲して、非合理的な信仰に徹するよりほかはありません。キェルケゴールによりますと、キリスト教徒にこのやうな逆説的な信仰を産み出す唯一の条件となるのは、信仰者個人に対して「キリストとの同時性」が成立することであるといはれます。二千年前にイスラエルでキリストとして活動したイエスが、生の現実の唯中で苦悩をかかへて救ひを求める人間の目の前に現前してゐるといふことが明白な事実と映つてゐることによつて、一切の狐疑逡巡を掃蕩して信仰を確乎たるものになし得るのだといふのです。しかしそのやうな出来事が生起するためには、一人一人が立つてゐる「今、此処」が直ちにキリストが立つてゐた終末観的現在と一つに接続してゐなければなりませんが、万人に向けてそれを可能にする場を開いたのがパウロだ、といふ風にキェルケゴールはパウロを高く評価してゐます。沙漠のなかで稲妻に打ち倒されるやうにしてパウロに現成したキリストとの邂逅こそが「キリストとの永遠にして且つ本質的な同時性」の成立であつたのであり、これに反してペテロたちのやうに直接に人間の姿を取つてゐた生身のイエスを目撃し、所謂謦咳に接する恵みを得た人人の場合は、彼らの信仰がいかに命がけなものであつても、有相のイエスにどうしても繋縛される「史実の上での同時代性」にとどまらざるを得ないことになります。直弟子たちの師に対する忠実な思ひに理不尽な形で横槍を入れてきたパウロこそが、久松先生の用語を使へば、無相の場での「キリストとの同時性」を確立したのであり、パウロの次の世代がパウロ主義を選択したことによつて、キリスト教は「真理の規準」たる使徒的伝統を確立し、世界宗教への道を開いたのであります。佛教の場合でも然るべき例は見出せると思ひますが、キリスト教の場合には以上の推移がイエスにつづくたつた二世代か三世代の間に急速に展開されたので、事柄が非常に分りやすくなつてゐるのです。
手短かにと思ひながら結局ながながと述べることになつてしまつたのは、FAS協会が今後ももし存続してゆくとしたならば、その担ひ手は久松先生の生前のお姿に相見する機会を持ち得なかつた人人に移つてゆかなければならない時機に差しかかつてゐるからです。これらの方方は同時に過去にFAS協会の中核となつてきた学者タイプの人ではなく、実社会で勤務してこられた方方であり、しかもそのほとんどの場合インターネットなど現代の先尖的メディアを通すといふ古い世代には想像もつかない形で集まつて来てをられます。このやうな変貌を古い世代に属する方方は危ぶむかも知れませんが、却つてそこに従来とはまつたく異なつた活動方針が立てられ、新しい局面が現れるかも知れません。私をも含めて直弟子の世代は久松先生の有相の姿がどうしても臨済のいふ「金屑」となつて「眼に落ちて翳(えい)を成す」(勘辨、十三)ことになつてゐるやうにも思はれます。そのことを看破してをられたがために、久松先生は晩年になつて「見、師と斉しきは師の半徳を減ず。見、師に過ぎて方に伝授するに堪へたり」(行録、九)といふ臨済の一句をしきりと強調されたのではないでせうか。時代に取残されて化石人間となつた観のある私がこのやうな橋渡しに少しでもお役に立てるかは甚だ疑はしいのですが、頑迷固陋にだけは陥らないやうに心がけたいと思つてをります。