池長 澄さんのこと

越智 通世
風信45号 2001年12月

棺の中の花に覆われながら眠る池長さんの表情は、はっとさせられるほど、強い意志を眉宇のあたりに漂わせているようであった。その二ヶ月前、大腿骨折で入院中を見舞った時、アルツハイマーの病状も進み、「もう新聞も見ません」と、奥様は話しておられた。私と家内の顔を見てにこにこと話しかけ、しきりにこちらの健康を喜んでくれているようだった(その昔だめかと思いながら、重病の私を見舞い続けてくれたことがあった)。いつもと変わらない大らかな笑顔であった。もう大分前から雑事を超えて悠然たる趣があった。高校生のお孫さんが描いた肖像にも、その力強さが表現されていた。平素の柔和な人柄の底を流れて、生涯を貫いた志操の高さを物語るものであろう。かねて「病と気の分離が身心脱落だ」と語ったことがあった。思いもよらず身体も頭も弱ってゆきながら、どこまでも気宇の豊かさを湛えていた温もりが忘れられない。

昭和八年中学校入学時同じ組だった。「極楽はどこにある」という漢文の先生の問いに、「チベットの辺です」と彼独り答え皆笑った。ちょうどあの辺の桃源郷の紀行を読んでいたという。やがて開設された南蛮美術館の御曹司であった。彼は剣道部、私は柔道部、たまに帰路一緒のことがあった。

卒業後は会うこともなく昭和二四年、阪急電車で偶然隣席になった。彼は宇品の陸軍船舶兵部隊の特攻洩れで、広島の被爆者遺体の運搬作業を終えて復員。阪大の助手になっていたが、金欠状況で、「共産党にならいつでもなる」と笑っていた。(父君は財産税に苦しみながら苦心の蒐集絵画等を散逸することなく、間もなく神戸市に建物ぐるみ寄贈移管された)私はシベリヤ還りで経営困難な児童文化教室に入り、青息吐息であった。そして「苦しさの中にはまり込んで耐えたら、地球が割れる物凄い力が出てくる」という、坐の見性体験を踏まえた話に、深く印象づけられた。

二年後健康上も生活上もいよいよ窮し果て、美術館の自宅に彼を訪ねた。学生時代高唱した「不惜身命」(国のためと続いたが)の語が頭に残っていた。坐禅の手引きにとしばらく坐った後、山麓の道を歩きながら話してくれたことは忘れ難い。(彼は三高入学後も剣道の試合でどうしても勝てなかった。もうただ倒れるまで稽古だけやろうと…[人間はなかなか倒れるものでない。ふらふらになって倒れそうでしかもどこかで立っている]道場の床板を血で染める池長の稽古といわれて、試合には出されるが、それでも勝てなかった。四高との定期戦の折り「ああこれも敗けるのか」と立ち上がった。
どうしたことか相手の動きがよく見える。そして相手は慌てだし、こちらはますます落ち着く。たまりかねて撃ち込んできた相手の剣より速く、自分の剣が相手を撃っていた。そして十人余り勝ち抜いた〔こちらは勝とうという気を押さえることばかり努めているのに、相手は勝とうと思ってきて焦って自滅する〕。それからほとんど負け知らずになった。修行の差で上手の人には、参りましたと心から甲を脱いだ。苦しいのは互角の相手、対峙してたらたら冷や汗が流れるばかりで、どちらも動けない。根較べ、根が尽きた方が負け、そうなると平素の稽古がものをいう。―しかしもっと苦しいのは相手がいない自分との斗いであった。
下宿に帰り独りになる。いずれ戦争に行って死ななければならない、学問は途中である、希望がない。その苦しみに耐え難くなり坐禅を始めた…)と。これより後は別の機会に聞いたこと。彼自身も何かに書いたことがある。(戦後学道道場に入った。痛いばかりの結跏趺坐の別時学道を数回重ねた時、もう躰も心もどうにもこうにもしようがなくなった。そして頭が割れる大転機がきた…ああもうこれで痛苦を味わい尽くしたと思った時、警策を持って巡って来られた久松先生から「木に縁って魚を求むるが如し」と言われ、受けた警策とともに「心行処滅」と大喝されて骨髄に滲み通った)というのである。

その池長さんの結跏趺坐の端然たる美しさは、長身の背筋が伸びてびくともしない。向かい側の単で脚の痛みに耐えかねて、先生の提綱もうわの空であった私の眼に焼きついている。かつても神戸学道会で六時から九時までの例会に、業務のため遅れてやっと九時前に駆けつけたら、薄暗い本堂で彼独りが坐っていた。恐らく三時間坐り通していたのであろう。「修行というのはいいもんだなあ」というのが、帰途洩れてきた言葉だった。「自分が汗してつかんだものだけが真実だ」「生活のすべてが坐だと思っている」とも言っていたが、このような坐が生き抜く力の源泉であったに違いない。本務はもとより、書画や謡曲や園芸等(バラの土作りに二メートル掘ったとか聞いた)、何をするにも徹底した姿勢をご遺族も偲んでおられる。

彼に伴われて抱石庵を訪い、平常道場に参じてから五十年。別時学道、講演会、論究会、委員会等帰路を共にしながら、あれこれ質問できるのが楽しみだった。そして神戸学道会、阪神FASにおいて二百数十回の例会を共にしてきた。その間常に私をリードしてくれたのは彼の坐であり、時折の言葉であり、「八風吹けども動ぜず」と語った通りの、清廉な生活態度であった。「相手に求めない」ことを話してくれたこともあった。自らの苦労や苦境をほとんど口にしないことは、常軌はずれと思えるほどだった。そしてきびしい批判精神をもって現状にあきたらず、常に新機軸を打ち出そうと試みた。

昭和四十年頃の彼はしきりに、禅機を人々に端的に訴えるドキュメンタリー映画の構想と制作を口にした。父君の縁故から大原美術館主の倉敷レーヨン社長や、毎日放送の協力を期待していた。大学紛争に際しては同志と語らって、(適)塾的性格をもった大学の創設を計ろうとした。これらは彼におけるFASの展開である。私もこれらの業務面で協力を要望されたが、余力なく対応できなかった。

昭和五十年頃からは、長年担当してきた大学教養課程の倫理学講義のマンネリを破り、受講する各学部各学科の学生に「自分の専攻しようとする分野と倫理」という問題意識を書かせ、二百四十余名の一人一人の意見を要約して配った。そして倫理思想の講義に毎回意見を書かせ、それを整理紹介しつつ対話的授業を進める努力を続けた。

早くから並々ならない決意をもって、自ら再発足させた阪神FAS例会活動であったが(次号掲載の別稿「阪神FASの足跡」参照)その営みの中で二度までも会の取り止めを提議した。最初は「マンネリ化して一期一会の覚悟に欠ける。無意味である」と。二度目はかねて久松先生から、早く後近代の世界の青写真を書けと要求されていたことに応ずる「ポストモダニストの新展開を期して」であった。ブディスト誌第二五号の「ポストモダニスト私観」(FAS四十周年記念講演会講演要録)と、同誌第二八号の巻頭言「ポストモダンについて」には、その趣意が出ている。私には難解であるが主旨は(後近代は即今当処の脱近代でもある。西谷先生の『宗教とは何か』でヒントを与えられ、その中でしばしば引用されている「鳥飛んで鳥の如し」という句によって眼を開かれた。フランスの言語哲学の記号論から意味論へにおける、メタファ〈隠喩〉の創造機能との類比において、仏教の根源語の「如」が「ありのまま」と「ごとし」の両義において、体として根本であると同時に用をもっている。近代化ということが言語・記号を中心とする広義の構造化の貫徹であるとするならば、脱近代化、脱構造化の一つの機縁として、如実如幻を脚下の問いとしたい)ということであろう。新展開を期した阪神FASの例会でも「鳥飛んで鳥の如し」―その物がその物自体を喩え、実体が幻であるとする問題は、言語だけでなくすべての表現の根本にあることを訴えた。そしてまた三十数年の謡曲の稽古を踏まえて、中入を通して虚と実が入れ替わってしまう、メタファとしての能表現の深さを話した。脱近代化、脱構造化の現実の諸問題と、その原点としてのFAS、基本的公案における日常底と創造等々を論究しあったが、しかもなお実施上の焦点を絞ってゆく機運が熟せず、さらに運営構想の練り直しを迫られ休止した。平素から地元の著名画家や美術館関係者、神戸新聞編集部門等と交遊があり、彼の頭の中には文化的芸術的サロン風集まりの構想もあったと思える。「越智君はも少し芸術的関心を深めるとよいのだが」と言われたことがあったが、私はなお坐の徹底が課題で、この方面でも彼の構想を生かす助力ができなかった。前夫人を病で見送った頃一度、絞り出すような声で「寂しいぞ」と洩らしたことがあったが、自炊して大学へ通うかたわら書画の制作に打ち込み、いずれ個展を開きたいとも言っていた。自宅をFASの道舎や文化サロン的に開放したい

その後平成元年に始まり、第七回まで続けた公開のFAS夏期セミナーには、積極的に加わり内容面だけでなく、新聞広報にも尽力した。その間平成四年には胃の全摘手術を受けた。翌年には平常道場の『善の研究』の論究の、導入的リードを引き受けてくれたが、六回担当してこれ以上はマンネリになると打ち切ってしまった。阪神大震災後もFAS行事への参加に努めていたが、手術の後遺の自律神経失調症候で、不意に気持ちが悪くなることがあり困ると言っていた。ヨーロッパでFAS方式のリトリートが続けられているのに、「いざというときに役立てない」と残念がっていた。いろいろ抱負があったであろう。平成十二年一月の鳴海さんの論究会に出ようと京都へ来たが、京大会館の会場が思い出せず、タクシーで一巡して帰神したと翌日聞き驚嘆した。
最後にずっと私を励まし続け、今なお課題として心に残る池長さんの言葉の一端を並べたい。
○ 「坐禅は痛くなったところから本当に始まる」
○ 「脚の痛みは全身火のようになって…」
○ 「いまいまいまと一息一息すべてを対象とする。そのすべてと一つである」
○ 「なるべくかためて坐れ。調子のよい時など特に」
○ 「独りで坐れるようになったらよい」
○ 「自分が坐っていると思ったら大間違い。坐らされているのだ。世界が坐っているのだ」
○ 「歴史は坐であるという認識を持つ。坐が大調和活動であるという体験的認識を持つ。(坐でない体験があるか?)現実をありのままに受け容れ、(成否を超えたところで)調和的認識を持つ―歴史の覚が自己において現成するのが坐である」
○ 「歴史をイデアリズムで追いかけても涯しがない。即今当処の覚としてとらえる。そこに歴史の方向性がある(単なる自己陶酔かそれ以上か)そこが科学知を超えるところから、科学知を生かしていく創造となる。空から悲へである」
○ 「空―一息一息、息のままに、任運騰々、流れて止まず。諸法無我―ニヒリズムの超克」
○ 「無―いまいまいま一息一息、刹那刹那の充実が自己である。それは欲求を離脱して、科学技術を活用するものである」
○ 「直下無心」「如」

 以上、偏狭粗雑な追憶の記述を見た彼は、「越智生きて越智の如し」と微苦笑することであろう。
「五十年わが坐導き友は逝く
夢幻の如し現つのまに」
(2001.11.15)