二○○一年一二月八日発題記録:「相互参究」を相互参究する(前半)

江尻 祥晃
風信47号 2002年12月(ウエブでの読みやすさを考慮し、原文の段落区切りを変更しています。)
          
参加者―TK・OC・OY・HR・YM・江尻
相国寺山内林光院にて

江尻「それでは発題をさせていただきます。相互参究についてということで今日は皆さんと真剣な話し合いができればと思っています。FAS協会におきましては基本的公案と相互参究、この二つは二本柱と言いますか、二つの非常に大事なものとされてきました。これまで私は自分の発題において基本的公案とは何かということで何回かやってきましたが、今日はもう一つの柱である相互参究というものについてここで参究しあえたらと思います。まず、相互参究の相互とは何を指すのかということが一つあると思います。もう一つは、その相互が参究するという場合、一体何を参究するのかということが大事な問題になってくると思います。まずは今日ご出席いただいた方々にこの二つの問い、相互参究の相互とは何か、一体何を参究するのかということをお聞きしたいと思います。比較的参加されて間もないということでYMさんからお願いします。」

YM「私は一番何も知らないというか、極めて一般的な印象ということになると思いますが、まずこの相互参究というのは、私が久松先生の本を読んで、これは学道道場なりFAS協会をリードされる中で久松先生が提示された独自の修行の方法論だろうということなんですね。なぜそれが独自かと言うと、僕の想像では多分、伝統的な禅の修行のスタイルに対するアンチテーゼとして出してこられたんだろうということですね。僕のイメージだと一般的な修行においては禅マスター(老師)がおられてその方へ向かって参禅するというスタイルが多いという印象を受けているんですけれども、その方向ではなくて、お師匠さんとお弟子さんという関係ではなくて、修行する人達一人一人が対等というか、主体性を重視するというか、そういう感じでマスターと弟子という関係を取り払って、対等な、共に修行する主体性を認め合うというのかなあ、そういう形で置き換えたものじゃないかなあと思うんです。ただ私は相互というのが一対一ということを意味するのか、それとももっとより複数の人を意味するのか、そこのところが今一つ分からないんです。一対一に限定するのかしないのかということですね。次に参究の方ですけれども、これは伝統的なスタイルに対するアンチテーゼとするならば、何千もあるという公案を与えて、その公案に対する工夫の結果を老師が聞くと、それが師と弟子の間で行われる参禅のスタイルであるとするならば、久松さんがめざしておられるのは、そういう伝統的な公案を見るというようなものではないわけですから、そういうことにとらわれない相互の参究というのを意味していると思うんですね。伝統的な禅の修行のスタイルである参禅方式に対する一種のアンチテーゼであり、新たな新提案ですね。革新的なもの、禅の現代化といいますか、そういうことが久松先生の新しい提案だったんだろうと思うんです。これは概念的な印象なんですけれども。ただ一つ疑問がありましてね。学道道場なりFAS協会に参加した人は、そうは言っても久松真一という人に、この人格に引かれてというか、久松先生に向かって修行するというのか教えを乞うというのか、久松先生に弟子入りするような気持ちがあったんじゃないかと想像するんですね。やはり精神的な営みですから、そういうものを体現している人格というものを抜きにしては考えにくいと思うんです。まして当時は若い学生さんなんかが中心になってやっていたということにな

江尻「HRさんいかがでしょうか。」

HR「私は自己究明というか、自己の真の姿というのを究明すると、それはFASのF(無相の自己)というものに対してどう自分が考えるか、それは人それぞれ考え方がありますから、それをお互いに深く掘り下げて、無相の自己というものを究明する。私は無相の自己というのは自己の生命力というか、生きるいのちの元力(もとぢから)的な考えをもっております。以上です。」

江尻「もう一度確認させていただきます。相互参究の相互というのは生きるいのちの元力と私との相互というふうに捉えるということですか。」

HR「いや、相互というのはお互い人間として自己の究明の中で、無相の自己についてのいろいろな考えがあるから、それについてお互いが話することによって自己を掘り下げていくということです。」

江尻「相互というのは他者と私ということですね。」

HR「そう、他者と私です。他者に対しては、自分というものを他者において分かるということがありますし、他者とはぜんぜん違うと、己(おのれ)は己なんだというところに生き方の問題もあると思うんです。それをお互いに、同じ問題を話することによって深く無相の自己に参じていく。」

江尻「相互参究の相互というのは自分と他者のことである。そういう相互であるということなんですが、それとは違う相互というものはないんでしょうか。例えばHRさんと私とは他者同士ですね。全く生まれた環境も違うし考え方も違うでしょうし、そういう他者同士が、その相互が一体何を参究するのか。HRさんからすれば私(江尻)とは一体何者なのかということを、他者としての江尻を参究していくということになるんでしょうか。逆に私からすればHRさんという他者を、どういうことを考えている人なのかということを参究していくということになるんでしょうか。そんなふうに考えていくと難しいですね。OYさんいかがでしょうか。」

OY「私は前にも書いたことがあるのですが、相互というのは普通は他人との相互ということになると思うんです。けれども、久松先生が言う相互というのは、当然それも相互と言っておられるんですが、少なくとも本来の私との相互、自分と本来の自分との相互ということを重要視しておられると思う。私と本来の私というものの相互間の参究。本来の私に参じていくことを相互参究の第一義と言われたのだと私は理解していますけどね。だから他人との相互参究も無視できないけれども、もう一つ、もっと重要なのは本当の私との相互参究ということが根底にあって相互参究ということを言っておられると思います。」

江尻「今の場合は、本当の私と現実の私との間で相互ということが成り立つということですね。しかし本来の私と現実の私とが何を参究するんですか。二人という言い方はおかしいかも知れませんが、その相互で一体何を参究するんでしょう。」

OY「それは本来というものを参究するんです。本来の存在とはどういうものかということを参究する。他人との参究の中で分かるということ以上に、本来の自分じゃないと分からないぞ、ということを久松先生は言っていたんだと思います。本来が本来のものに気づくんであって、他人から言われて気づくものじゃない。少なくともそっ啄同時という言葉を言っていたと思います。親鳥がつつくんじゃなくて自分が自分でつつくということがない限りは参究にもならない。自分が自分で内からつついてはじめて殻が破れるんであって、親がつつくということは二の次、むしろ自分が自分でつつくということがない限りは殻なんか破れないぞという、そういうことが非常に重要なことだと言われていたと思いますね。」

江尻「今の場合でしたら、雛鳥というか、卵の中からつつくものが現実の私ですね。外から親鳥がつつくというのが本来の自分ということになりますか。」

OY「いやいや、殻をかぶった本来というひよこが内にあるのが卵で、卵の状態が普通の人間のあり方ですよね。普通の人間のあり方は卵。要するに殻を持って本来の中身を持ったあり方が非本来的なあり方。本来じゃないあり方です。それが人間という存在。だけど、卵は中身を持っていて、中身のひよこが本来、その本来が自分からつついて出てくると、それが人間が人間になるということ。だから普通の人間存在は卵であって人間じゃないんですよ。人間が人間になるというのは、外からつつかれるということもあるけれども、自分でつついて出てくる。出てきたものが本当の人間。そういうものだと思います。」

江尻「現実の自分と本来の自分との相互参究によって、この現実の自分が本来の自分になるということですね。」

OY「人間が人間になるということです。」

江尻「OCさんはいかがですか。」

OC「一人一人を波としますとね、みんな本来水なんだということにお互い目覚め合うということだと思う。そういうことはいろんな人間が世界中いつでもどこでもやっているんだと、別に坐禅しなくても、参究しなくてもやっているんだと、それがまあ参究ということでしょうね。それで相互というのはやはり共通の自己、みんなが水だという共通の自己があるから、俺と彼とか、相互ということになるけれどね、相互というのは後であって、相互が先にあって参究するんじゃなくて、僕らがみんな水だということが基盤なんです。本来そうなんだけれども、誰でも本来水なんですけれども、自覚的に意識的に参究しあうということは、修行の方法としてはあるわけですよね。しかし別に自覚しなくたってもう既に参究しあっているとも言える。僕は西田先生の言葉を思い出すんですけれども、我があって経験があるんじゃなくて、経験があって我があるんだということがありますよね。だから参究ということがあってはじめて相互ということがある。AとBとがいて、それが相互参究するというんじゃなくて、お互いが参究できる基盤というのは共通の自己。それがあるから参究しあえる。本来みんな水なんだぞと言うことです。大ざっぱに言うとこういうことだと思います。」

江尻「自分が何者かである、何かに依っているということが他者との相互参究によってはっきりするということを言われる人もいますよね。TKさんいかがでしょうか。」

TK「久松先生との参究のことを先程YMさんがおっしゃいましたよね。久松先生との参究というのは、自分にとって他者との参究ではないという意識が非常に強いんです。というか、だからこそ久松先生と出会うという気持ちがあるんです。久松先生において自分の本当の姿を見るというね、そういうものがあるからこそ久松先生がおっしゃっている相互参究ってどういうことなのかなあということを教えられます。それは久松先生に向かって相互参究しますなんてことは言えることじゃないですよね。私にとっては言えた柄じゃないわけです。けれどもそれにも関わらず先生が、これは相互参究なんですよとおっしゃると、本当にそうなんだなあと、そうでなければ久松先生との出会いというのはあり得ないんだと、そういう気持ちになりましてね、他にそういうことをおっしゃる方はないんですよ。ですから久松先生との出会いというものを通して先生が投げかけられた人間のあり方、基本的なあり方だということを受け止めることだと私は思っているんです。久松先生との出会いというか、久松先生に参究しに行きましたことは、お互いそれぞれにありますけれども、そういうことは別に誰も公表されません。公表しないですけれども、どういうことがあったかということは、他の伝統的な僧堂もそうだと思いますけれども、公表しないのが原則ですね。何があったかということは当人同士しか知らないわけです。知られているのは何気なしにお互いにやりとりする問答ですね、禅の先生と弟子という、二人や三人の間で自然に出てくる問答ですね、それで出てきたものを侍者とか誰かが記録していて、そしてそれが我々に伝わってきているのが、まあ大体唐の時代の問答と言われるもの、自然な形でやりとりされているんですね。そうすると問いを発している者も、それから答えを発している者も………久松先生のおっしゃる基本的公案と言いますか、それを、問う方もそうですし答える方もそうですし、そこに出てくる問答というのが久松先生のおっしゃる相互参究ということなんだなあと思ってですね、問答を読んでいるんですけれども、久松先生がおっしゃった事柄は、日本ではいろんな修行の中で非常に形式化してきた師と弟子との関係の中で………そういうことを促しておられる。大体私自身、相互参究ってどういうことか何にも分からなかったんですけれども、久松先生の『相互参究について』という論文を英文に訳しましてね、訳したときに大変だったん


江尻「ありがとうございました。今のTKさんのご発言は結局久松先生に参じるということは、他者として久松先生に参じるんじゃなくて、本当の自己に参じることなんだということですね。他者的な久松先生がおられて、自分がその他者的な久松先生に参じている、普通はそういうふうに思ってしまうんだけれども、実は他者的な久松先生に参じているんじゃなくて、言い方はおかしいかも知れませんが、久松先生を通して本来の自分に参じていると、そういうあり方で参じていくというのが本当の相互参究であるということですね。」

TK「それが理屈じゃなくてそうなっているんですね、久松先生の場合は。これがすごい、そうなっているということがね。ですから久松先生が書かれたものに我々が触れて、深く読んでいけばいくほど、私の本当の自己だなあと思わざるを得ないような、そういうものが我々の目の前に活字となって現れてきますよね。そこのところが久松先生の書いたものを読むという意味だろうと私は思いますけれどもね。」

HR「江尻さんよろしいか。今江尻さんが言ったように、他をして自己の究明をするというね、道元で言うならば万法に証せられるということ、そういう意味においてやはり人間というものは、他から自己を、自己の命を感じる、例えば木は春には生々と芽吹き、秋には葉落ちる。これをもって自分の命、生死事大ということが分かる。同時に自己の命、本当の命を実感する。そこにFASが発露している。生活そのものが、今生きるということが本来の自己の探求、自己を見るという意味において僕は万法に証せられるということを思う。久松先生の書かれたものを読む。また僕らはFASに来させてもらって同じ場で一緒に坐る。ものすごく啓発を受ける。ということは、自分の実感から申し上げる。本来の自己というものをみんな忘れておる。それでしか生きられないのに、何とかこの自分にいいように、悪いことにならないようにと、それで生きておると思う。だからあくまでも自分なんだけれども人間というのはなかなか本来の自己を自ら覚するのは難しいと思う。」

OC「お釈迦様が開悟された時に草木国土悉皆成仏と言われた。つまり草木国土とも相互参究しているということを言っておられますね。相互というのは人間だけじゃないと、そういうことがここに書かれている。」

HR「他というものからということも僕は尊重してもらわなければいけないと思います。本来は自分で自分の殻を破っていくというのが一番いい方法だけれども、それは難しい。人間というものはそういうことについてはなかなか難しい。本来の人間からそうでないとお互いの啓発もありませんし、他人によって啓発される、そこに相互参究ということがあるんじゃないか。」

江尻「先程TKさんが結局久松先生と対するということが、他者的な久松先生じゃなくて、そこに本来の自分が対している、そこにいると思える、そういうふうに実感をもって思えたということですね、久松先生の場合は。久松という他者じゃなくてもう本来の私なんだと、そこに現成しているのは。それを実感をもって味わえるような方であったと言われていたと思うんです。今回、相互参究の相互とは、参究とはということで、皆さん一人一人にお聞きしましたけれども、それで答えは出たようなものなんですけれども、普通一般的に相互と言ったら私とあなた、他者と自分、その間の相互というように受け取られていますよね。相互というのは自分と他者なんだと。それが複数であろうと一対一であろうと、そういう横のつながりの相互、それが普通の意味の相互ということになると思うんですけれども、もう一つ相互と言えるものがあると思うんです。それはOYさんが言われたようなことなんですけれども、現実の私と本来の私、この間にも相互というのは成り立つわけです。それを縦の相互参究というふうに言った場合に、本来の私と現実の私とが相互参究する、それは非常に大事なことだと思うんですけれども、現実の人間の在り方としてはどうかと考えた時に、現実の私というのは違う方向に、本来の私の方向じゃない方向に意識が飛んでいて、本来の自己に向かっていないというのが現実の我々の在り方じゃないかなあと思います。しかし本来の私から現実の私への突き上げ、呼びかけというのは常にあるわけなんですね。それに対してこの現実の私から本来の私へという方向性はない場合が非常に多い。つまり一方通行なわけですね。本来の自分は絶えず今ここでこの現実の私に相互参究を呼びかけているんだけれども、この現実の私の方はその呼びかけに応じることなく別の方向を向いている。それが現実の私の在り方、普通一般の在り方じゃないかと思うわけです。しかし現実の自分が本来の自分の呼びかけ、突き上げに気づいて、この現実の自分が本来の自分に真正面から取り組むというか、目を向けた時に相互ということが成り立つんじゃないか。縦の相互参究というのは本来の私からの呼びかけに素直に応じる、それができた時に始まる。そしてそれはまさに坐禅という姿に象徴されるんじゃないか。坐禅こそ本来の自分と現実の自分との相互参究の姿じゃないかというのが私の考えです。普通現実の自分というのは本来の自分からの突き上げを見


OC「あなたは非常にパターンとかね、相互参究ということを型にはめて考えている。そうじゃなくて、以前Sさんの話が出ましたけれど、路地の魚屋さんとか八百屋さんの話に感動する、それも相互参究ですよ。活きてパッと本当の自己が触れ合っている。そんなこと世間にいっぱいある。それが元じゃないですか。だから自分が本来の自己と相互参究していないという、そんなことないじゃないですか。誰だってみんな心打たれる時や感動する時がある。そこのところちょっとギャップがあるんじゃないか。有相の自己があってそれが本来の自己と相互参究するという、その視点をちょっと考え直してみたらどうですか。それが西田さんの言う、我あって経験があるんじゃなくて、経験があって我があるんだということです。人と会ってハッと心打たれるということ。普通我々が自己という場合に、江尻さんはよく有相の自己と言われるけどね、それはイメージだと思うんですよ。自己という表象ですね。本当の自己じゃない。まったく僕の勝手な解釈ですけれどもね、我思うゆえに我ありというのがありますね。これ哲学と関係ないんですよ。この最初の我というのはイメージですよ。我という表象ですよ。思うということの中に我があると、これは経験の中に我がある、それを概念的に整理したら、我思うゆえに我ありというようなことになるんじゃないかな。最初の我というのはとにかく抜け殻みたいな概念というか、表象というか、自己の表象です。だからあなたは有相の自己が本来の自己から突き上げられると言うけれども、最初から有相の自己を設定している。それがもう既に表象じゃないですか。生きた自己というのは先程HRさんが言っていたが、畑をやっていたらパッと気づいたというようなことじゃないか。もっと相互の触れ合いというのが相互参究だというふうに広く考えないと、坐禅をどうのこうのじゃなしにね。久松先生が言っておられるのはそこじゃないですか。世界中いつでもどこでも誰でも相互参究しているんだということでしょう。」

江尻「先程他者との相互参究を通して、何かに寄りかかっている自分に気づかされる、はっきりさせられるという人がいるという話をしましたよね。結局人間は自分が何者かである、何かであるという在り方をしているわけでしょう。みんな何かしら自分というものを持っているから苦しいわけでしょう。自分が今苦しむというのは何か自分という形を持って生きているから苦しみを持っているんじゃないですか。元からそんなものはないんだ、本来ないものなんだ、表象に過ぎないんだ、有相の自己なんてないんだと言っていたら…」

OC「そうじゃなくてね、苦しいのは自己なんです。自己の苦しみじゃなくて、苦しみが自己なんですよ。」

江尻「有相の自己、この現実の自己が自己じゃないと言っておられるわけですか。実際突き上げを受けて苦しんでいる私がいるわけですよ。少なくとも僕は苦しんでいます。」

OC「それがイメージのことが多い。苦しんでいる自己がいるというのはもうイメージだ。苦しみそのものはね、あーーそれだけ。」

江尻「OCさんはイメージじゃない苦しみそのものが自分だと言っているわけですか。」

OC「経験あって我があるということです。」

江尻「苦しみだけであるということを言われているわけですね。」

OC「だから坐禅しているでしょう。足が痛くなるでしょう。その時にどうしてもいけなければどうするか、こんなこと考えているのは頭で考えているんですよ。そうじゃなくて本当に坐っていたら痛さだけですよ。そうなるとそこで痛みとともに消え去れと、あなたが言うように突き上げられているそこだけになりきる。この場合痛みというのは一応突き上げられていると考えたらいいでしょう。足が痛いのも心が痛いのも一緒ですよ。その痛みだけになりきる。この痛みを何とかしよう、どうしたらなくなるだろうとそんなことを考えている間は絶対痛みから抜けられないですよ。痛みになりきる、痛みとともに消え去るというね、突き上げられるままに自分を任せてしまうということ、そこで何か一つの転機があるんじゃないか。そうじゃないですか。あなたがしきりに言っていることはそういうことじゃないかと思うんですよ。だから僕はもっと具体的に言ってほしいと思う。僕は何回もあなたに言ってきた、経験的に話してほしいと。突き上げが来ているとかどうとかそんなこと言っている暇はないでしょう。もう痛さだけ、苦しみだけというか、そういうことだと思うんですよ。そこで一つの転機が起こってくる。」

江尻「OCさんがいつも問題にされている、痛みだけ苦しみだけということ、もうそれだけなんだと言われていますよね、それになりきるんだと。それじゃあどうしてもいけなければどうするかという公案にしても、どうしてもいけないそれだけと言うことになるんじゃないですか。」

OC「どうしてもいけないんじゃないわけですよ。」

江尻「どうしてもいけないわけではないんですか。」

OC「そこに一種の自己がある。経験あって我があるとかね、むしろそれが純粋経験で本当の自己に近いでしょうね。みんなそういう経験をもっているわけです。それを自覚するかしないかの差だけであってね。どうしてもいけないというのは、どうするか、どうしようどうしようと思っているからどうしてもいけないと感じるわけでしょう。追い詰められたらどうしてもいけないなんて言っている暇もない。」

HR「他者というのは育ちも違うし経験も違うしものの考え方も違うし、一つのものを見てもそっちから見るのとこっちから見るのと違う。一方が明るければ一方は暗い。だからピタッと一つになることはあり得ないと思う。」

OC「HRさんは自分と他人とは違うというそこを出発点にしているでしょう。それをひっくり返せと言うわけですよ。共通点があるから違うということがあるわけだから、共通点を出発点とするということです。」

HR「それじゃあ二人の共通点はどうなんですか。言い合いをしているだけじゃないですか。OCさんと江尻さんとの共通点をうまいこと出してほしいわけです。」

OC「今こうして話し合っている。そして通じている。言い合いができるということが共通点でしょう。共通点があるから言い合いができるわけでね。それがなかったらできないでしょう。それが経験ですよ。共通点があるから違いがあるということが分かるわけですよ。その中でお互いに帰るということ。意志前意志前と言うけれどね、そこをみんな通っている。」

HR「意志前に行けということでしょう。」

OC「みんな自分という人間がコントロールできると、意志の自由というようなことを言いますよね。それが自由だと言うけれど、そんなこととんでもない。自分の意志をコントロールできますか。」

HR「そこで意志前の状態とはどういうことかということに問題を集中しないとだめじゃないか。意志前の状態とはどういうことですか。」

OC「それはややこしいけれど、分かりやすく言うと、例えば男というのはミニスカートの女性を見ると刺激を受けて欲求が起きるでしょう。欲求が起きるということは意志の活動ですよ。そしたら精神的にも緊張するし肉体的にも緊張するわけです。そこには目標があるわけですからね。しかし目標がなくなったらそういう思いも消えてしまうでしょう。そこが意志前ですよ。欲求前ですよ。そうかと思ったら向こうから酒のにおいがしてきた。ああ飲みたいと思う。そこでまた酒が飲みたいという欲求が起こる。意志が出たり入ったりする元が意志前。欲求というのは意志活動なわけです。理性に近い意志というのは哲学の伝統なんでしょうね。プラトンとかアリストテレスとか、あるいはデカルトとかね。だけどそうじゃなしに、少なくとも西田さんや久松さんが言っているのはもっとプラグマティズムに近い心理学ですね。意志というのはいろんな意味があるんですよ。」

HR「それで大体分かりました。意志前というのは欲求が出たり入ったりする元だということですね。それで今言われている有相の自己と無相の自己のことですが、江尻さんがこうやってパターンで説明することに対して、そうじゃなしにもっと直感的な、痛いと感ずるそこのところで捉えようとするOCさんの言い方があるわけですね。江尻さんのパターンでわけて分かりやすく説明しようとするやり方とOCさんの直感的に捉えるやり方との言い合いをしているわけでしょう。」

OC「そうじゃないんですよ。」

HR「僕はそういうふうに受け取っている。」

OC「相互参究というのはその人同士の本当の自己と本当の自己の触れ合いというのかな、ギリギリのところで触れ合うという、それが大事というかな、参究とは本来そういうものなんですよね。そうじゃない場合もあるけれども、広い意味では全部相互参究、だけど狭い意味で言うとそういうことになるわけですね。」

OY「私が思いますのは、人間はどんな状態になっても、どんな状態にあろうが、人間というのはこれが自分だと思っているんだ。常にこれが自分だと思っていますよね。これが自分だという思いの中に生きている。そしてそのことに対して他人からとやかく言われたら傷ついて苦しむ。苦しむということを通さない限りは根源的なものなんか見えないわけですよ。意志前の状態に一瞬なったとしてもすぐ次はこれが自分だと、これだけが自分だと思うように産み付けられていますからね。自分があり他があるわけです。他が自分を傷つける。否定されたら悩むわけですよ。悩むということが本当の自分との接点。江尻さんの話で言ったら、他人があって否定されて悩み尽くして縦の関係に入っていく、そういうことがない限りは相互参究なんて成り立たないと私は思っている。だから他人があって自分があって相互参究がなければだめですよ。パターン1か2かそれは分からないけれど、少なくとも他人があって自分があって、そしてそれは否定されるだけじゃない、おだてられて喜ぶ場合もあるかも知れない。少なくともこの自分が浮き上がった時に今度は自分が自分で行き詰まり悩むんだ。自然に自分が自分で縦の方向に向かわざるを得ない。ここに本当の意味の相互参究がある。私はそう思っていますけれどもね。それが人間存在でしょう。」

OC「自他自他と言っている間はね、歴史の進むべき方向は出ないと思うんですよ。真実にして幸福なる世界を建設しましょうなんて、そんな方向性は出ない。OYさんは苦しみって言うけれど、苦しみの中からパッとそれが抜ける時があるでしょう。苦しみばかり見ないで、苦しい世界と抜けた世界とどちらが本当なんだと考えた場合に、抜けたところが本当であってね。」

OY「だから私が言っているのはそういう苦しみがない限り抜けたところは来ないということを言っているんです。」

OC「それはそうでしょう。」

OY「苦しみがあって抜けたところというのは、この森羅万象あらゆるもの違ったものとして生きていると、相互に生きているということがなんと素晴らしいことかと、この現実がね。この森羅万象いろんなものが成り立って自分と違う、全然違ってこれこそが俺だと思って生きているそのことがね、なんと素晴らしいことか、有り難いことかという世界からの話でしょう。そういう森羅万象あらゆるもの、醜いものから美しいものまですべてのものが個々としてある。そのことの喜びですよ。全人類の幸福ということはそこでしか成り立ってこないじゃないですか。そのことを私は言っている。だから少なくとものんべんだらりんの水の世界じゃないわけですよ。水の世界であって個々の世界。まったく一人一人が波としてある。このことのすばらしさが見えるわけでしょう。」

OC「あなたは水の世界が波の世界とは別だと言っておられる。水と波とは一つでしょう。直下とはそういうことでしょう。波が水なんでしょう。水が波なんでしょう。」

OY「だからね私は少なくとも波がどこかにあって、これが波だというふうな思いは全然ないですよ。波だから水だと思っている。そこがないと水の世界は本当は見えないんじゃないですか。私はそう思っているんです。波だから水。個々に区分されバラバラに生きている、まったく違うものとして生きている。だから一