ある相互参究の記録

(生駒灯明岳坐禅会の試み)

  江尻祥晃


風信49号 2003年12月(ウエブでの読みやすさを考慮し、原文の段落区切りを変更しています。)

はじめに

  生駒山の一角にその昔、行基菩薩が修行したといわれる霊場があり、その名を灯明岳といいます。今でも都会の喧噪を離れたとても静かなところです。現在その場所に山荘が一軒ポツンと建っているのですが、そこはかつて(戦中戦後)藤井明灯氏(元FAS会員・二○○一年六月二○日逝去)が独坐修行した場所でした。諸般の事情によりその山荘は人手に渡り、明灯氏の所有ではなくなりましたが、明灯氏は晩年、ご自分が修行されたこの場所をどうしても大衆禅の道場として活用したいと熱望され、現在の持ち主と直接交渉し、月に数回大衆禅の道場として使用してもよいという確約を得ました。

それ以来、大藪・江尻が呼びかけ人となり、賛同者をつのり、月一〜二回のペースで灯明岳坐禅会を開催することになったのです(第一回は二○○○年七月一六日)。現在(二○○三年一○月)坐禅会は四八回を数えるまでになりました。定例の坐禅会は朝一○時から夕方五時まで、坐禅と相互参究を主として行っています。明灯氏が体調を崩し、東京の病院に入院されるようになった辺り(二○○一年春頃)から、明灯氏に灯明岳での活動を報告する意味もこめて『灯明岳大衆禅堂だより』なるものを江尻が中心となり発行(月一回のペース)するようになりました(第一号は二○○一年五月二七日発行)。

現在『たより』は三十号までに至っています。今回、以下に掲載するものは、『たより』第二七号(二○○三年七月二二日発行)所収の第四○回灯明岳坐禅会相互参究の記録です。この中で相互参究している大藪・末長・江尻は共にFAS協会の会員でありますが、灯明岳坐禅会はFAS協会活動ではなく、あくまでも大衆禅を志す仲間達の自由な集まりであることをお断りしておきます。    

 

 相互参究

(第四十回灯明岳坐禅会)

      参加者―大藪・末長・江尻

 

【世法即仏法】

江尻「仏教では世法即仏法と言うでしょう。」

 

大藪「そんなこと道元が言ったの?」

 

江尻「いや、道元がそういう言葉として言ったかどうかは知りませんが、でも、同じようなことは言っていると思いますよ。」

 

大藪「それは煩悩即菩提という言葉もあるからね。」

 

江尻「それも一緒ですよね。結局、世俗のことをやっている、そのことの中に仏法はあるのであって、世俗で悩んでいることとはかけ離れているんだというのは間違いである。そういうことではなくて、世俗で苦悩している、そのことの中にちゃんと仏法はあるんだと、そこに気づかないことにはダメなんだということなんですよね。結局、自分は今、世俗の生活をしていると、だから仏法の世界とは縁遠いんだと、仏教に興味があってやってみたいという気持ちはあるけれども、世俗の生活に流されて(世俗の仕事があって、家庭があって、いろんな雑事があって)仏法のことが出来ないんだと、普通そう言う人が多いんだけれども、それはおかしいよと言うことですね。自分が働いてお金を儲けて、妻や子供を養ってという、その世俗的な生活をしている、そこに仏法というのは活き活きと働いているんだと、それに気づくか気づかないかの話であってね、世俗の生活を全部捨てて僧堂に入ったりとか、禅の世界へ飛び込んで、修行の世界に入ったらね、それは仏法の生活をしているんだと言えるけれども、しかし、そうじゃなくて世俗的な生活を営んでいたらそれはもう仏法の世界じゃないんだと、普通はそう考えてしまうけれども、全くそうじゃないと、ここ(世俗の世界)でこそ仏法が生きているということに気づくというね、この世俗的な世界で、自分が実際に生きているこの場所で仏法が息づいているんだという、そこに気づくことが非常に大事でね、その辺はみんな一度真剣に考えてみる必要があると思うんです。宗教というのが何か自分の日常の生活とはかけ離れているように思っているけどね、日常の自分の生き様がまさしく宗教そのものなんだというか、密接につながっていると言うんですかね。」

 

大藪「だけど、かかわっているんだよって、煩悩即菩提なんだよって言われても、ああそうですかとはまた思えないんだな。」

 

江尻「思えない!確かにそうなんですけれどもね。」

 

末長「難しいなあ。」

 

江尻「僕が宝慶寺へ接心に行った時に、もう五十代ぐらいの人ですかね、雲水さんなんですが、その方は何年か前までサラリーマンをやっていて、世俗の世界にいたたまれなくなって僧堂に飛び込んだそうなんです。その方には奥さんも子どもさんもいるらしいんですよ。家族を残して自分一人僧堂へ飛び込んで、今では寺の重要な役職について立派にやっておられるんだけれども、その人と最終日にちょっとだけ立ち話をする機会があって、いくつか話を聞いてみたんですけれども、サラリーマンをやっておられた頃は、会社に行っても、家にいても非常にむなしさを感じたんだと、とてもむなしかったと言うんです。会社の人と話をしても、家に帰って奥さんや子どもさんと過ごしても、むなしさがつのるばかりで、とにかくそういう世俗の世界にいたたまれなくなって僧堂へ飛び込んだと言うんですね。僧堂へ飛び込んで何年か経って、本当のものを見つけたかどうかまでは聞けませんでしたけれど、そういう人がいたわけです。この方は自分の現実の生活の中でむなしさを感じて、無常を感じて、ここ(世俗の世界)には本物はないと思われたわけですね。僧堂の中には本当のものがあるんじゃないかと思って飛び込んだ。実際そこで本物を見つけられたかどうかは分からないけれど、まあ、今でもそこに留まっているということは事実なんです。そこで思うのは、この現実の自分、世俗的なところで生きていて、非常にむなしさを感じるというのはよく分かるんですよ。しかし、僧堂というところへ飛び込んだら、それまでのむなしさがなくなって、光り輝く世界というか、納得できる世界が見つかって、そこにいる限りは安心できると、そういうことについてはそれでいいのかな、それが本当のものと言えるのかなと疑問に思うわけです。世俗的な自分の生活になかったものが僧堂にはあるかということになると、僕は僧堂にもないと思うわけです。じゃあ、どこにあるのかという話になるんだけれども、そこが大事なところで、世俗的なところでむなしさを感じるというのは、本当に真剣に自分を見つめれば見つめるほど、この現実の自分のどうしようもなさは見えてくると思います。見えてくるんだけれども、そこまではいいんですけれどもね、そこで、どこか別のところに真実があるんだと思ってしまうでしょう。ここ(世俗の世界)にないんだから別のところ(例えば僧堂)にあるだろうと思ってしまう。」

 

末長「だけど、人間というのは逃げをうつようにできているんだ。夢を追うことで現実が過ぎていくという、そういう術を人間は持っているんだ。一つの生き方のパターンだと思う。それも人間が世の中を生きていく術だと思うけどなあ。だからといって江尻さんの言うように、僧堂に真実があるかといったら、それは別問題。やっぱり僧堂って言ったって私たちのおる大地の延長線上にあるしね、非常に難しい問題もあると思う。自分もそういう夢を描くことで、夢見ることで現実をやり過ごす、そういうことがある。サラリーマンであろうが学生であろうが。だから多重人格なんか、基本的に現実が認められないから結局多くの人格が出来てくるわけでしょう。だから、自分の今の状況を認めるに忍びがたいから、俺は将来こういうふうになって見返してやるぞとかね、現実が肯定できないわけですよ。それは本能と違うかなあ。本能と言ったら語弊があるかも知れないけれどもね。」

 

大藪「だから、むなしさを感じるって非常に重要なことでしょう。むなしさを感じられなかったらね、本当のところへ行かないでしょう。むなしさを感じられるってとても重要なことですよ。だから、むしろ世俗の世界を生きていたらむなしさを感じられる。僧堂へ行ったらむなしさを本当に感じられるかどうか。本当は、僧堂生活をしたら全くむなしいと、こんなにむなしいと、そういうことがない限りは乗り越えられないでしょう。だから私は生きていることのむなしさや苦しさみたいなものを抜きにして僧堂へ入っていくような、今の雲水の在り方というものはどこか間違っていると思う。本当の雲水なんて出てこない。そこからは本当の人間なんて出てこない。もう、この生きていることのむなしさの極に達してね、僧堂に入ったと、それはものになると思うけどね。むなしささえも感じたことのないような奴が修行なんて出来ないでしょう。本当の修行にならないでしょう。それは押しつけられた修行じゃないですか。そんなもの仕組みの中にはまり込んだだけだ。そんなことで本当の人間にはならないと思いますよ。だから本当を言ったら、全くむなしい、そのむなしいところから修行して、大人の修行をやる僧堂へ入ってやったら、何か分かるかも知れないな。だけど江尻さんが言われるように、世の中生きていくのはむなしいと、むなしいから逃げるようにして僧堂に入ったって、そんなものもまた全然ダメだと思います。僧堂は逃げるところじゃないものね。だけどそういう人が多いよね、世の中に。今の時代結構多いと思うけれども、それもだめだと思う。本当はそのむなしさの中にどっぷり浸かり込んでね、むなしさの意味を世俗の中で、つかむのが本当は一番いいんだと思うんだけれども、世俗の中だけで、一方的に世俗に流されていたらつかめないじゃないですか。しかし、生きていくのは辛い、むなしいって感じるのは世俗の中にいた方が良いわけでしょう。だから、むなしさを感じられる世俗の中で道法を捨てずして修行できたら一番いいんだ。それが大衆禅だな。」

 

江尻「僕が言いたいのはそこなんですよ。それが大衆禅なんですよ。それはだから僧堂の禅とは違うんですよ。現実の自分の生活の中でむなしさがこみ上げてくるというのは大藪さんが言われたとおり非常に大事なことで、むなしいというそこだけで、後そこからの出口がなければね、確かにむなしいだけなんですけれども、そのむなしさの本当の意味をね、お互いにこういう場で深めていくということは、むなしいと感じるそこにこそ仏法は活き活きと生きているんだよということを、その人が分かり、お互いに分かり合う。むなしいのはこの私からしたらいたたまれないくらいつらいことなんだけれども、そのむなしさ、むなしくさせているものの素晴らしさをね、いかに理解するかでしょう。」

 

大藪「だから末長さんの言葉を借りたら、むなしいということが本当は、仏が与えた餌(呼びかけ)なんだと思えるかどうかだな。生きていることがむなしいということは、本当はそれこそが価値あることなんだって思えるかどうか。それはむなしさを無価値なことと思うからみんな困っているわけでしょう。むなしいと悩んでいることがね、なんか全然意味のないことで、本当は悩まないでサーッといけたらいいなと思うものが半面あるからむなしさで困っているわけでしょう。だけど、むなしさこそが意味があるんだということが分かるかどうかだな。江尻さんは世俗の仏法と言ったのかな。」

 

江尻「世俗の世界でこの私が苦悩することがまさしく仏法がそこで活き活きと働いているという、そのことの現れだということなんですね。」

 

大藪「だからそのことが分かるってものすごいことじゃないですか。」

 

江尻「それはものすごいことなんですけれども、結局、自分がむなしさを感じて、ここ(世俗)で感じて、じゃあ、ここ(僧堂)へ行けばなくなるだろうと思ってそこへ飛び込むという、人間というのはそういうものだと末長さんは言われたけれども、自分のどうしようもなさが見えてくれば見えてくるほど、その場を逃げ出したいというかね、違うところで見つかるんじゃないかと思ったら、そこへ飛び込んだりしますよね。当然人間というのは弱いからそういうことをしてしまうんだけれども、でも、そこへ飛び込んでも本当のところは見えない(根本的なところは解決しない)んだよということがどこかで分からないとね。飛び込んでみてはじめて気がつくということもあるだろうけれども、ここ(世俗の世界)でむなしさがこみ上げてくるということの素晴らしさを理解し合うというんですかね、そういう場がね、必要なんです。」

 

大藪「悩んでる、それでいいんだよってね。」

 

江尻「そういうことが本当に普通に生活している、世俗的な生活をしている人間同士が、実はそこでいろんな人がそれぞれいろんな苦労をしてね、むなしさを感じるけれども、そこに本当は大事なものがあるんだということをお互いが気づき合う。それが大衆禅だと思うんですけれども、それこそが今大事なことであって、どこか遠くに、山の奥の僧堂へ入ったら、世俗から逃れて清らかな生活が出来るというような、そんなこと、一服の清涼剤みたいにね、そこにいる間はむなしさを忘れて清々しい気持ちになれると、それだけでもいいじゃないかと言う人もいるかも知れませんが、それも悪くはないでしょうが、それはまさしく仮の住処でしょう。」

 

大藪「それは逃げ場、まやかしの場ですよね。」

 

江尻「しかし現実はそこへ入ったからといって本当の解決にはならない。一番問題なのは人間の根本苦でしょう。その根本苦というのは、この世俗の世界にいようが、山奥のどんな素晴らしい僧堂にいようが、人間の中に巣くう根本苦というのは変わりませんよね。」

 

大藪「むしろ世俗にいる方が根本苦はよく見えるんだな。山の中で独りで住んでいたら根本苦が見えなくなる。それも逃げだな。むしろ世俗の中にいた方が苦悩がありありと見える。手っ取り早く言えば、要するにどう行き詰まるかでしょう。その人がいかに早く行き詰まるかじゃないですか。むしろ行き詰まらせる方法をどうするかでしょう。行き詰まれば苦悩する。現実は、この私は行き詰まれば、それは困るんだけどね。しかし本当はいかに早く行き詰まらせ困らせるかという部分が仏法にはあるわけですよ。だから、むなしさにどうその人が早く行き詰まるかということが実は解決方法という部分があるんだな。だからただ山奥へ入ったら、それが本当に行き詰まる方法かどうかという、そういうところから考えてみる必要がある。その辺、末長さんどう思われますか。」

 

末長「結局、世俗で生きていて行き詰まるって難しいですよ。日々の生活をしていて、例えば私だったら授業していてそう思えるかと言ったらね、なかなか難しい。自分のことを考えてみて下さい。家で食事を作っている時とか、洗濯物を干している時とか、それが一体何なんだと、俺は思うけどねえ。俺ぐらいの年になると、俺より下の奴が教頭とか校長になりよるわけだ。まあ、それはそれでいいんやけどな、何でやねんと思うことがある。そいつを知っているからね。俺に力がないからしょうがないけれど、そういうことを言うこと自体が考え方おかしいと、自分でも思うしな。だけどそいつから命令されたら何でやねん、こんな青二才に言われなあかんのやと、やっぱり思う。そういうことがあるわけや、現実に。自分に能力がないくせに、そんなこと言われたらかなわんわけや。自分でそういうことを避けよう、思わないようにしようと思うけれども、自然に湧いてきてしまう、そいつの顔を見たら。だからそういうものと悪戦苦闘するわけや、そういう状況とな。だから俺は生身の人間を言っているわけや、正直に。俺なんか六道輪廻しているわけだ。本当の話が地獄をめぐっている。自分でそう思っている。嫁さんには一言も言ってないけどな、ずっと地獄めぐりしているんだ。いつもそう思っている。切羽詰まって自分で逃げている場合もあるし、だからそういうところが仏法のところかと問われた時に、ハイそうですとは素直に言えないわ。それは各自いろいろあると思うんだ、言うか言わないかの違いだけでな。」

 

江尻「だから末長さんが今言った、自分は地獄めぐりをしているんだと、六道輪廻しているんだと、そう言っている時にね、そういう自分がいるわけでしょう。末長さんが言うとおり地獄なんですね。」

 

末長「だからそんなこと嫌やから打ち捨てたいわけや、正直な話。仕事やめたいと思う時もあるしな、本当に思っているよ。だから禅堂に入りたいとは思わないけれども、放浪したいとは思っているよ。そんなこと許されないけどな。そんなわけでぐじゃぐじゃしている。憂さ晴らしして、また落ち込む、そういうことの繰り返しですよ。」

 

江尻「だから、そこに仏法というのは活き活きと働いているわけです。」

 

末長「そう思えるか、実際。」

 

江尻「そう思えない末長さんがいるわけでしょう。」

 

末長「だからこそ俺も結局自分がどうなるか分からないけれども、仏に任せると、そういう気持ちでないと生きていられない、正直な話。任せる!六道輪廻をはいつくばっている自分を全部仏に背負ってもらう。それで自分は空っぽで生きるしかしょうがないじゃないですか。それでどうのこうの言われたって解決策とか分からない。だからホンマの話、そういうふうに思うとな、私ら子供相手の仕事でしょう。俺の仕事って一体何なんだと思った時に、まあ余裕があればね、子供に自信をつけてやるのが俺の仕事違うかということは感じています。しかし、方や自分は地獄を這いめぐっているわけだ。家に帰ったら家に帰ったで、立派な親父じゃないけれども、そういう役目を勤めないといけない部分がある。だから結局、自分は修行とかそんなの分からないけれども、仏さんに自分を投げ出すしかしょうがないやんと、それをどこまで出来るかという問題なんですよ、自分自身が。そういう気持ちですわ。」

 

大藪「それでいいんだな。」

 

末長「どない言われたってしょうがない。」

 

大藪「みんなそうなんだ。私らだってそうですよ。今は偉そうなこと言っているけれども、あなたの言うことはよく分かる。だけど、それはそれなりに私も勤めたんです。上司に腹を立てながらも、生きていくためにはしょうがないと思ってやってきた。それでいいのと違うの?、私はそう思っているんです。だけどその時に、ここで仏法のために仏法をするとか言っているけれども、仏法のための仏法というのはね、煎じ詰めれば、悪いことをせえへんと、諸悪莫作(諸々の悪をなさず)、自分は悪いことができないと、それが仏法のために仏法をただやるということ。悪いこと出来ないって、あなたも今言ったじゃないですか、生徒に自信つけてやろうって、ものすごく善いことじゃないですか。衆善奉行(あらゆる善行を行う)ですよね。」

 

末長「何も出来ることないから結局、自信を失っている子供がいたら話すことでちょっとでも自信をつけてやろうと思う。それが金もらっている仕事違うかなと最近そういうふうに思うようになりましてな。」

 

大藪「それすごいことと違う?、だからそういうことを片一方で一つもってはって、それは偉くもならんしね、どうしようもないけれども…」

 

末長「そやけど私、悪いことばっかりしてますよ。嘘ばっかり言ってますよ。」

 

大藪「それはそれでいいって(笑)。河合隼雄さんがうそつきクラブの会長とか言っていますよね。うそつきであることも現実を生きるための一つなんだ。だけどどこかに諸悪莫作・衆善奉行というようなものがあるのと違う?、仏法のために仏法をただやるというのはそういうことと違う?、私はそう思っているけどね。今・ここ・この自分に与えられた一瞬の生命に従って行くだけですって。その生命ってね、一瞬一瞬の生命ってね、諸悪莫作・衆善奉行という声が聞こえるかどうかだと思うけどね。それが仏法のためにただ仏法をやるということ。それ以上のことはないと思う。そういうふうに私は最近思えるようになったですよ。それでいいのと違うかな。人を私の本心ほどに助けられない時もあるけどね、逃げてしまう時もあるし、うそもつくことあるけどね。だけど常に諸悪莫作・衆善奉行と聞こえてくるものがあるって、自分の中に。そのことを大切にし誤魔化せない自分を信じている。」

 

末長「最近分からないのはね、臨済録なんかで真人(主体的人間)と言いますやん。方や仏が決めていると、ある程度大枠を決めていると、決まっているものに自分を任せるというスタイルがあります。他力と自力の問題になるのかも分からないけれども、自力というのは他力がベースにあるでしょう。結局、自分の主体性ってなんやねんって、そういうことを最近感じるんですよ。」

 

江尻「自分の主体性ですか?」

 

末長「そうそう、自らの主体性。方や仏に任せるということがある。仏に任せたら自分の主体性って何やねんということになる。それが分からない時がある。だから日々生きているということは自らの主体性で生きてますやん。それが仏が支えているという言い方も出来るかも知れないけれど、それは言葉のニュアンスであってね、自分自身の気持ちの中で己はどうなんやろうなという、そういう疑問がありますね。自分でも分からない。」

 

大藪「主体ってどういうことかってか?、だけど主体ってないのと違うか。」

 

末長「選択して、目標を持って、考えて行動するのがそうじゃないですか。生き方の主体性とか言いますやん。だけど、仏が決めているんだったら主体性もなにもありませんがな。言葉(言い方)の問題もあるけれども、言うなれば気持ちの持ちようですよ。どこをどういうふうに気持ちを持っていったらいいかという、その辺の落としどころというかな。」

 

江尻「この私が主体、そして仏があると言いますよね。末長さんの場合、仏というのを自分のどこに位置づけているかというね、つまり仏とは自分にとって何なのか、それによって話は変わってくると思うんですけれどもね。末長さん自身が仏とはこうなんだと理解しているところがあると思うんですよ。仏についての自分なりの理解。仏をどういうものとして捉えているかによって変わってくると思うんです。今言われた自分の主体性というのは一体何なんだろうかと疑問を持っておられるということですけれども、自分にとって仏とは何かということが、末長さんの捉え方によって変わってくると思うんですね。以前、傾聴ボランティアの方々と話し合いを持った時に、自分の中に仏がいるんだと、しかしその仏はこの私から見たら他者なんだと言われた人がいたんですね。この私からすれば仏とは他者だと、あくまでも他者なんだけれども、私の中にいるんだと、間違いなく私の奥底にいてなんだかんだと働きかけてくるんだと、そういう解釈をする人もいるんですね。また、仏というのは自分とは違う別のところにいてね、離れたところにいて、その仏が自分に何かしら働きかけてきて、ああせえこうせえと、まあ言ったらこの私は人形で、仏がこの私を操っていて何でもさせているんだと、そういう感覚で仏を捉えている人もいるわけです。自分の中にいるんだけれども、それはあくまでも他者的な仏なんだと捉えるのか、自分の底に仏という主体が、この私の本物の主体があるんだと捉えるのかね、それによってかなり話が変わってくると思うんですけれどもね。末長さんの場合は仏というのを結局どう捉えているのか、さっきの話で言えば、自分というのはなんだかんだ言っても仏に自分のものを背負ってもらうしかないんだと言われていましたけれどもね。その背負ってもらう仏というのは一体末長さんにとってどういうものなんですか?、そこが非常に大事だと思うんですけれども。」

 

末長「まあ、母親のようなものであってほしいなあとは思うんだけれどもね。それは虫がよすぎるのかも分からないけれどもなあ。」

 

江尻「仏は母親のようであってほしいと願う、しかしある意味仏というのは威厳のある父親のようにこの私を叱ってくるかも知れませんよね。そんなことするなと、悪いことはやめなさいと絶えず言ってくるかも知れない。逆に、悪いことをしても、これからはしないようにと優しい母親のような働きをするかも知れないしね。いろんな姿を取るかも知れませんけれども、末長さんにとっては母のようなものだと、そうあってくれたらいいと言われるわけですね。それは結局、自分と仏とはどういう関係、自分の外に仏というのはあるんですか?、私がいて、仏が外にいて母のようなやさしさで自分に働きかけてきてくれるという…」

 

末長「虫のいい言い方をしたら自分を甘えさせてくれるような、やっぱりこの宇宙というか、この世を包み込んでいるような、自分はその一員であるんだけれども、そういうイメージ、わがままかも知れないけれども。」

 

江尻「自分の主体性というのはね、結局私がいてですよ、末長さんという自分がいて、こうしようああしようと自分の主体性に沿ってやっていくと、そしてその時に、仏が、今お前はそういうことをやっているけれども、それはダメだと、そんなことをやっていてはいけないと言ってくるとかね、今はいいことをやっている、どんどんやりなさいというふうに仏から働きかけてくると、つまり末長さんが主体的に、この自分が主体的にやっていることに対して、仏というのは絶えずそれについて判断を下してくるというかね、そういうものであると、あくまでも自分は自分の主体性でやりたいことをやっていくと、しかしそれに絶えず何かしら働きかけてくる、自分が主体的にやっていることに対して意見を言ってくるというか、いいか悪いか働きかけてくるというんですかね、そういうものを仏としている。」

 

末長「やっぱり諸法実相と言いますやん。生きとしいけるものを全て含めて生かすものが仏ちがうかなという思いはあるけどな。それが母親のようであってほしいなあと、ただ、父親の部分もあるだろうし、それが自分の中に根本的にあるという、そういうのはあんまり考えたことないけど、つながりがあるんだろうなあと、どこまでつながっているのか、そこまでは自分は分からない。なかなか感じ取れないというかな、だからその辺の実感というのかな、理屈じゃなくてね、理屈じゃなくて実感としてどう自分が思えるかということになるんだと思うんだけどな。迷いの中にあるという、そういうことですわ。」

 

江尻「この私は迷いの中にあるということ。」

 

末長「そうそう、そういうことですね。」

 

江尻「だからこの私は迷いの中にあるということをまざまざと分からせてくれているものがいるわけですよね。」

 

末長「うん、それはあるだろうな。」

 

江尻「今自分は迷いの中にいるとか、さっきの末長さんの発言で言えば、自分は地獄めぐりをしているんだと思わせているものがあるわけですね、自分の中に。それは他の人が批判していることではないでしょう。自分自身が自分のやっていることに対して、現実にやっていることに対して、ああなんと俺は地獄めぐりしているんだと、なんとどうしようもないことをやっているんだと、自分に思わせてくるものがあるわけですね。」

 

末長「そうです。」

 

江尻「はっきりと言ってくる。それが仏でしょう。」

 

末長「まあそう言われたらそうかも知れない。」

 

江尻「実感するというか、自分のどうしようもなさを浮かび上がらせてくるものがあってね、だからこそ末長さんの地獄めぐり発言が出てくるわけですよ。自分は地獄めぐりしていると、どうしようもない人間だと、そういうことは深さの中でしか出てこないんですよ。それがなかったらそんなこと見えませんからね。自分が自分の主体性でやりたいことをやっているわけですから、本来ならそれでもう満足なはずでしょう。なんの問題もないじゃないですか。自分が主体的にやって、それで楽しんだのならハッピーじゃないですか。しかしそれに対して、いやこれは地獄を回っているんだと、六道輪廻しているんだというふうに受け取らざるを得ないわけでしょう。そう思わせているものが自分の中に間違いなくいるわけじゃないですか。それが本当は自分なんですよ。自分の主体なんですよ。この現実の私が主体的にやっていく、この私が私の主体だって末長さんさっき言われましたよね、それを自分の主体だと思う。普通人間はみんなそういうふうに思っているんだけれども、そう思った時にね、いやそれは違うぞと、それはまさしく地獄めぐりをやっているんだと、とんでもないことだと、この私に訴えてくる、この私が主体的にやったことに対してですよ、それはおかしいじゃないかと言ってくる、それが末長さんの本当の主体。その主体はまさしく末長さん自身なんですよ。末長さんは自分の主体を間違いなく生きているわけです。末長さんは深い主体を生きているんだけれども、末長さんにはこの俺がというもう一つの主体があるわけでしょう。そっちも主体なわけですよ。主体というか主体と思い込んでいる(思い込まされている)主体があるわけですよ。末長さんはそれを俺の本当の主体と思っているわけですね。それがいろんなことをやって後悔もし、ある時は有頂天にもなり、六道輪廻するわけでしょう。しかし末長さんの俺という主体がいろんなことをやっていることを真っ向からそんなもの違うぞと、お前がやっていることは間違っていると言ってくる末長さんの本当の深い主体というのがあるんですよ。それが末長さんの本当の主体。それがあるからこそこの自分の六道輪廻している姿がありありと見えるわけですよ。俺はなんと地獄めぐりしていることかと分かるわけですね。末長さんの本当の主体が深いところにドーンとあるからです。それが仏なんですよ。仏こそ末長さんの主体なんです。」

 

大藪「末長さんのその深いところの仏が諸悪莫作・衆善奉行と言ってくる。」

 

江尻「言ってくる。絶えず言ってきているんです。言ってきているから、なんと俺は地獄めぐりしているんだろう、どうしようもないことをやっているんだろうと思わざるを得ないんですよ、この俺の主体は。末長さんが主体と思い込んでいる主体はね、これが俺だと思っている主体、これが俺だと思っているから、主体だと思っているから仏の働きが他力に思えるわけですね。自分とは違う力だと思う。ここ(この私)から見るから、この俺を主体としたここから仏を見るものだからどうしても他力としか受け取れないわけです。しかし実は他力、この俺からは他力としか思えない、この下の深い私の働きが自力である、本当の自力、末長さんの自力なんですよ。末長さんに真の自力があるからこそ自分(この俺)のどうしようもなさがありありと見えてくる。」

 

大藪「だけど、この俺という主体ね、この俺というのがね、仏が本当の俺だと、こう思ったらね、これは精神病ですよ、ある面から言ったらね。こういう仏の俺が俺だと思いながら、この現実を生きている俺があってね、人間って本当に生きたことじゃないですか。この俺が逆転してしまって、こちらが俺だと思ったらそれは精神病患者だね。それとも呆けたかね。呆けたか精神病だ。この現実を生きているこの俺が、あんな俺より下の奴が出世して命令しよる、どうしようもないって思えるこの俺があっていいじゃないですか。あるけれどもこの俺を生きている。この現実がきちっと見えていなかったら、こちらだけだと行きっぱなしだったらもう痴呆か精神病。そうでしょう。だから人間は苦悩し続けるんですよ。死ぬまで苦悩するんだ、こいつは。苦悩し続ける。それでいい。だけど常になんと罪深い、なんと六道輪廻をする人間かというのを言い続けてくるものがあるということを誤魔化したらいかん。それこそが俺なんだ。そういう確信があったらいい。」

 

江尻「道元が『一方が明るければ一方は暗し』と言うでしょう。だからこの俺がなんと苦しい存在なんだろうってありありと現れているそこにこそ仏の存在があるわけですね。この私のどうしようもなさがありありと見えている時には、仏の力が下にあってそれが働きかけているんだって、そんなことは説明でしかないですよね。この苦しい現実、こっちが明るいということは仏のところは暗いわけですね。見えてないわけですよ、実際。しかし、この私が苦しいという、そのことの中にこそ仏がある。この私が苦しむことが仏が働いてくれているという証明なわけですね。この私は一生苦しまなければならないという、その中にいかに仏の働きがこの私を生かしてくれているかということを、この私の苦しみのところではっきりと分からないといけないわけです。なんで俺はこんなに苦しんでいるんだと、苦しまない私になりたいって普通人間は思ってしまうけれども、この私は一生涯苦しみ続けるんだなとはっきり分かるという、そこに救いがある。もうそこで既に救われているわけです。この私では苦しくてたまらないとありありと分かるから仏に自分を投げ出すという話も出てくるわけでしょう。この私が苦しまない私になりたい、なれる、あそこへ行ったら苦しくなくなるんじゃないか、そういう他の可能性を自分が持っているんだったら仏に全部お任せするなんて話は出てきませんよね。実際、この私がどんなことをしようがダメなんだと、どこまで行っても地獄行きだと、そういう確信というか、逃れられないものなんだとはっきり見えるから、もう俺はお手上げだと、仏に全てお任せするしかないと、話はそこから出てくるわけでしょう。どこかにまだ逃げ場所があるうちは仏に任せるという話は出てきませんからね。自分の主体性を生かしてですよ、まだ生き延びられる道があるとかですね、禅堂へ入ったら、放浪の旅に出たらまだなんとかなるとかですね、そういう逃げ道が自分の中にあったら、仏にわざわざ任せなくても自分の力でやっていったらいいわけでしょう。末長さんがもう仏さんに全て背負ってもらわないとどうしようもないんだというのは、この自分のどうしようもなさがありありと見えたからですよ。もう自分ではどうにも身動きがとれなくなったから、それじゃあお願いしますという話になったわけでしょう。この私ではどうしようもなくなっているというのがまさしく本当の自分がこの私のどうしようもなさをバーッと照らし出してくれているということ、この深さの私、深さの末長さんがこの現実の自分のどうしようもなさをサーチライトを浴びせたように浮かび上がらせたから自分のどうしようもなさがはっきりと見えてきて、もうどこにも逃げられないということが確定したわけでしょう。そこで手放しという話になる。もうそれしかないんですからね。その時に自分の主体性はどうなるんだって、末長さんの場合は、この俺の主体性はどうなるんだっていう質問だったと思うんですけれども。」

 

末長「ええ、そうです。」

 

江尻「ここ(上)の主体性なんてもうどうでもいいんですよ。手放すしかないんでしょう。仏にお任せするしかないと言っているのに俺の主体性はどうなるんだって、それはおかしな話じゃないですか。」

 

末長「いや、だから、分かるんです。理屈では分かる。だけど現実はその辺でうまくいかへんや。その辺のあれですよ。江尻さんの言っていることもよく分かる気がする。」

 

大藪「現実は現実というのがあるんだ、それは。」

 

江尻「でも仏教というのは、宗教というのは現実と全然かけ離れていない。まさしく現実そのものじゃないですか。」

 

末長「いや、そこが体でどんだけ分かるかということなんだ、実感としてな。観念で分かるんじゃなくてね。」

 

大藪「自分が自分で納得する以外にない。確かに仏法の世界を、そのまま体が許さないものが誰にもあるからね。わかっていてわからないという、はがゆさがあって困るんだけどね。」

 

末長「そうなんです。自分の体で分かりたい!」

〈了〉