『起信の課題』

久松真一

より、「救済の機と熏習」に関する部分
(理想社、1983、pp.59-60、初版:弘文堂書房、1947。以下の〔〕、段分けは入力者による)
〔『大乗起信論』〕「解釈分」に「心真如とは、即ち是一法界大総相法門の体なり。所謂心性は不生不滅なり。一切の諸法は、唯妄念に依りて差別あり。若し心念を離るれば則ち一切の境界の相なし」とあるが、真如に本来差別がないとすれば、仏と衆生という差別も本来はないわけである。本来ないものに、どうして仏と衆生との別が出て来るか。それがはっきりわからぬと、〔法を受け取る〕機というものは根本的にはわからない。機の性格が根本的にわからぬと、いかにして法が機に作用し、機が法を領解し得るかがわからない。

この問題は、浄土真宗や危機神学にとっても難しい問題である。危機神学では、神と人とは絶対懸絶であって、人には神的契機は絶無であると考える。アダムの堕落すなわち原罪によって神と人とが絶対的に離れたものとなったというふうに解するから、人の内には神への通路は全くないことになるわけである。しかし、神と人とを関係づけるものがなければ救いは成り立たない。そこで、この関係づけは神より人への恩寵的啓示によるとみるほかはない。しかしこの場合に、もし人に神的契機が絶対になかったならば、人はいかにして啓示を享け得るかがわからぬことになる。浄土真宗でも、仏と衆生との関係は懸絶的である。衆生は全く極悪深重で、衆生の内には仏的契機は微塵もないと信ずるのである。かかる機の深信の上に弥陀の絶対他力が意味をなすのであるが、危機神学と同じくここでも、仏的契機の絶無なものに弥陀の力がいかにして作用し得るか、また衆生はいかにして弥陀の回向を受領し得るかが難問である。回向を受領する力も弥陀によって回向されたものとするにしても、それをまた衆生がいかにして受領し得るかはいつまで繰り返してもわかりようはない。

これは畢竟、衆生の内に仏的契機を認めぬことにはとうてい解決出来ない問題である。しかし仏的契機を認めるといっても、もし理想主義的になるならば、近世の人間中心的な、無反省なる無宗教に逆戻りするのほかはない。したがって、仏的契機の認め方は、どこまでも宗教への通路としての、人間の絶対批判による絶対否定に抵触しないものでなければならぬ。かかる仏的契機は、絶対否定が絶対肯定の絶対的契機になるようなものであればよいわけである。『起信論』においては、この仏的契機は、単なる秘儀や、不可思議に遁辞することなく、浄熏〔浄法熏習〕というはたらきによって最も原理的に解釈されている。浄土真宗の回向の可能性も、『起信論』における、真如と無明との回互熏習にまで深まることによってはじめて根本的に解決せられるであろう。・・・


June 2, 1996